2週間前に、ポートレート撮影をさせていただいた90日コーチングのクライアントさんから、「ポートレート撮影の後の変化でどうしてもお伝えしたいことがまた出てきました」とのことで、レポートを頂きました。その一部をご紹介したいと思います。
★ファッション&ポートレート撮影
*・゜゚・*:.。..。.:*・゜
■自分の内側の殻の存在
友達が私のポートレートの写真を「羨ましく見てる」と言っていました。
わたしは彼女にポートレート撮影をおすすめしましたが、
「恥ずかしすぎて、わたしにはできないっ」と、彼女。
「地球はあなたの味方よ」と、わたし。
彼女、笑いつつ、妙に納得。という会話がありました。
★ファッション&ポートレート撮影
*・゜゚・*:.。..。.:*・゜
■自分の内側の殻の存在
友達が私のポートレートの写真を「羨ましく見てる」と言っていました。
わたしは彼女にポートレート撮影をおすすめしましたが、
「恥ずかしすぎて、わたしにはできないっ」と、彼女。
「地球はあなたの味方よ」と、わたし。
彼女、笑いつつ、妙に納得。という会話がありました。
わたしもとても恥ずかしかったので友人の気持ちは良く理解できました。羨ましい気持ちを持ちながら恥ずかしいと感じるのは、自分の内側に殻の中でしぶっている自分の「部分」の存在があるからかな、と思います。
上手に外に表現できない部分を、自分がいつからか「殻」を身にまといとても安全なものとなって、またそれはいつか、その内側から「恥じらい」や「執着」やなんかそういう類いのものが発生する環境になっているのではないか、と。
でも、殻は悪いものではないです。わたしはそれがなかったら過ごせない日々があったと思うから。でも、必要がなくなったときにそのタイミングで手放すことができたら、それはまた一番良いことだと思います。
恥じらいは確かに1つの感情です。でもわたしの内側は恥じらうたびに窮屈でした。土の地面の下がわたしの内側だとすると、なんだかそこを足で固く固く踏み締めくずれないようにする、またそうされているような感覚に近いです。恥じらいをとっぱらえたとき、しぶっている部分が、しぶる必要性をせまられることなく、のびのびとしました。
もう一人の友人のコメントにも「写真素敵だね。そしてなんだか清々しい」という内容がありました。
しぶる自分ではなく、自由にのびのびやってる自分がそこに表れていたんだな、と。それが、清々しいということだったのかも!しれません。私はポートレート撮影を通して、心の断捨離をしていたんだ!と改めて気付きました。
■『私のカラダのどこかで(が)、「Happy!?」』
上手に外に表現できない部分を、自分がいつからか「殻」を身にまといとても安全なものとなって、またそれはいつか、その内側から「恥じらい」や「執着」やなんかそういう類いのものが発生する環境になっているのではないか、と。
でも、殻は悪いものではないです。わたしはそれがなかったら過ごせない日々があったと思うから。でも、必要がなくなったときにそのタイミングで手放すことができたら、それはまた一番良いことだと思います。
恥じらいは確かに1つの感情です。でもわたしの内側は恥じらうたびに窮屈でした。土の地面の下がわたしの内側だとすると、なんだかそこを足で固く固く踏み締めくずれないようにする、またそうされているような感覚に近いです。恥じらいをとっぱらえたとき、しぶっている部分が、しぶる必要性をせまられることなく、のびのびとしました。
もう一人の友人のコメントにも「写真素敵だね。そしてなんだか清々しい」という内容がありました。
しぶる自分ではなく、自由にのびのびやってる自分がそこに表れていたんだな、と。それが、清々しいということだったのかも!しれません。私はポートレート撮影を通して、心の断捨離をしていたんだ!と改めて気付きました。
■『私のカラダのどこかで(が)、「Happy!?」』
ポートレートを撮った最後の写真のとき目線を下げたら楽だった感覚は、現在を肯定できず、未来を必死に見ようとしてきたわたしの姿だったかもしれません。好きになる人がいても、いつもわたしは今の自分では、釣り合わないと勝手に思って恋愛をしていたことが多かったです。自分が誰かを想うことは当たり前だけど、相手に自分を想ってもらうことは、当然なことではない、と当然のように考えていました。仕事も未完な自分はどんな仕事をしてもやっと人並みなんだ!くらいに捉えてました。
だから、未来は希望でしたし、未来は輝いていてくれなければいけないし、未来は可能性に溢れていてくれなければいけない。前を見て上見て、向上心をもって生きる事は、とてもポジティブで前向きな姿です。わたしはそういう風によく人に見られていました。
ただ、なぜか、疲れ果ててしまっていました。希望なのに、疲れていたのです。
きっと、わたしはその希望との引き換えに、現実の自分を否定し続けていたのかもしれないと、今このことを考えながら思います。きっと、そうだったのだと思います。
~今、この文章を書きながら、涙が流れてきました。(おかしいですね。。。)~
自分を受け入れられること、自分を愛せることは、とても大切なことだと思います。本当に大切だと実感しています。本当にわたしにとっては長い長い時間でした。だけど、33歳になってこうして、自分を受け入れることができて幸せです。
*・゜゚・*:.。..。.:*・゜
月1で3回のセッションが終わったあとのポートレート撮影でした。だんだんと自分を解放していった先で、「素の自分を知りたい」という気持ちになり、撮影となったのです。
私は、作られた写真を撮るのは、やったことがありませんが、相手の素を引き出して撮影することだけは得意だと自負しています。自分の中にある「素」の感覚を知っているので、こちらが撮影するときに、その感覚でないときは、「違う」と感じているのです。
最後の写真は、まさに私の中にある「素」の感覚の状態につながったと私は感じました。そのとき、Hさんも、「これが素だったのか」と気づいたのです。
だから、未来は希望でしたし、未来は輝いていてくれなければいけないし、未来は可能性に溢れていてくれなければいけない。前を見て上見て、向上心をもって生きる事は、とてもポジティブで前向きな姿です。わたしはそういう風によく人に見られていました。
ただ、なぜか、疲れ果ててしまっていました。希望なのに、疲れていたのです。
きっと、わたしはその希望との引き換えに、現実の自分を否定し続けていたのかもしれないと、今このことを考えながら思います。きっと、そうだったのだと思います。
~今、この文章を書きながら、涙が流れてきました。(おかしいですね。。。)~
自分を受け入れられること、自分を愛せることは、とても大切なことだと思います。本当に大切だと実感しています。本当にわたしにとっては長い長い時間でした。だけど、33歳になってこうして、自分を受け入れることができて幸せです。
*・゜゚・*:.。..。.:*・゜
月1で3回のセッションが終わったあとのポートレート撮影でした。だんだんと自分を解放していった先で、「素の自分を知りたい」という気持ちになり、撮影となったのです。
私は、作られた写真を撮るのは、やったことがありませんが、相手の素を引き出して撮影することだけは得意だと自負しています。自分の中にある「素」の感覚を知っているので、こちらが撮影するときに、その感覚でないときは、「違う」と感じているのです。
最後の写真は、まさに私の中にある「素」の感覚の状態につながったと私は感じました。そのとき、Hさんも、「これが素だったのか」と気づいたのです。
その時、Hさんの着ていた服は、その日に私が選んだものでした。当日Hさんが着てきた服は、Hさんの「素」が気にいっている服じゃなかったのかもしれません。
Hさん気づくより先に、私が気づいていたHさんの「素」に似合う色、素材、デザインを探して、着て頂いたという感じでした。見た時は、「え?」のようでしたが、着てみると、体はわかったようです。「軽くなりました~!」といいながら、フィッティングから出てきました。
それから、場所も移動して、ニット帽という新しいアイテムも、Hさんの「素」を引き出すものでした。
そして、撮れた写真は、Hさんが思っていたよりも、目線は下のほうが、一番力が入っていなくて、ナチュラルでニュートラルな仕上がりとなりました。それは、「現在を肯定する」感覚が投影された表情だった、ということでした。私が思っていたよりも、クライアントさんにとって「素」の感覚を知れた体験は、大きかったようです。
「希望との引き換えに、現実の自分を否定し続けていたのかもしれない」。
誰しも希望へ向かって進んでいるときは、そういう印象で現在地点を捉えるかもしれません。
それを、こういう風に捉えると、もっと自然なのではないかと思います。
「未来の希望もあるし、今現在、そのプロセスの中にいて、過去からしてみたら、希望だった未来を生きている。ずっとプロセスの中にいるのだから」。
クライアントさんの気づいた言葉を借りて言うと、「自分を受け入れること」。
ポートレート撮影というプロセスの中で、私は、撮った写真をいちいち振り返りました。「この表情はどう?」といちいち見て頂くことも、自分を受け容れるプロセスのものだったのだと思います。見て見ぬふりをしない、というだけのことをしたのです。
「現在地の自分を認めること」その繰り返しが、希望の未来へと続いて行くだけのことなのかもしれません。
ハイチーズとか、記念日とかではなく、自然な自分が映っている写真を見ながら、自分を受け入れていくこと。頭で考えるよりも、感覚で自分が掴めるから、面白いですね。
「素の自分」は、究極のところ、誰もが嫌いになれない自分ですから。
今日はこちらの質問はいかがでしょうか?
顔のどこかに力が入っていませんか?
Hさん気づくより先に、私が気づいていたHさんの「素」に似合う色、素材、デザインを探して、着て頂いたという感じでした。見た時は、「え?」のようでしたが、着てみると、体はわかったようです。「軽くなりました~!」といいながら、フィッティングから出てきました。
それから、場所も移動して、ニット帽という新しいアイテムも、Hさんの「素」を引き出すものでした。
そして、撮れた写真は、Hさんが思っていたよりも、目線は下のほうが、一番力が入っていなくて、ナチュラルでニュートラルな仕上がりとなりました。それは、「現在を肯定する」感覚が投影された表情だった、ということでした。私が思っていたよりも、クライアントさんにとって「素」の感覚を知れた体験は、大きかったようです。
「希望との引き換えに、現実の自分を否定し続けていたのかもしれない」。
誰しも希望へ向かって進んでいるときは、そういう印象で現在地点を捉えるかもしれません。
それを、こういう風に捉えると、もっと自然なのではないかと思います。
「未来の希望もあるし、今現在、そのプロセスの中にいて、過去からしてみたら、希望だった未来を生きている。ずっとプロセスの中にいるのだから」。
クライアントさんの気づいた言葉を借りて言うと、「自分を受け入れること」。
ポートレート撮影というプロセスの中で、私は、撮った写真をいちいち振り返りました。「この表情はどう?」といちいち見て頂くことも、自分を受け容れるプロセスのものだったのだと思います。見て見ぬふりをしない、というだけのことをしたのです。
「現在地の自分を認めること」その繰り返しが、希望の未来へと続いて行くだけのことなのかもしれません。
ハイチーズとか、記念日とかではなく、自然な自分が映っている写真を見ながら、自分を受け入れていくこと。頭で考えるよりも、感覚で自分が掴めるから、面白いですね。
「素の自分」は、究極のところ、誰もが嫌いになれない自分ですから。
今日はこちらの質問はいかがでしょうか?
顔のどこかに力が入っていませんか?
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