マグリットも、構造で見ていた。

Hitomism 2.0  Epi.1 「構造で見る朝」のAさんから、

「なんだかマグリットみたいですね」

というコメントをいただいた。


マグリット。

そう言われて、あ、たしかに、と思った。

私はマグリット展にも行っているし、ベルギーにも行っている。

だから名前も作品も、全然知らないわけではない。


でも、正直に言うと、

あの絵をちゃんと理解していたかというと、そんな気はしない。


シンプルで、きれいな色。

そして、なんだか不思議な絵を描く人。

そのくらいの認識だった。


たとえば、あの有名な絵。

パイプが描いてあって、その下に

「これはパイプではない」

と書いてある絵。


昔見たときの私は、

「なんか不思議なこと言ってるな」

くらいにしか受け取れていなかった気がする。


でも今なら、あの絵が何をやっているのか、前より少しわかる気がする。

あれは、パイプそのものではなく、パイプの絵だ。

それなのに私たちは、見た瞬間に「パイプだ」と言ってしまう。


つまり、マグリットが見せているのは、

パイプではなく、

見たものをすぐ名前にしてしまう私たちの認識

なのだと思う。


見えているものは、本当にそれなのか。

自分は何を見ているつもりなのか。


そう考えたとき、

ああ、これは壺と土の話と同じだな、と思った。


目の前に壺がある。

それを見て「壺」と答える人がいる。

でも、「土」と答える人もいる。

壺と答えるのは、形を見ている。

土と答えるのは、その形になる前の前提を見ている。


マグリットのパイプも同じだ。

「パイプ」と言って終わるか、

「これはパイプそのものではなく、パイプの像だ」と立ち止まるか。


その違いは、知識の違いというより、

どこで見ているか

の違いなのだと思う。


昨日の羊の話も、少しそれに近かった。

紙粘土で羊を作って、机の上に置いたら立った。


最初は、「軽いから立ったのかな」と思った。

でも、実際には違った。

足の裏がちゃんと平面だった。

だから立った。


この違いは小さいようで、大きい。

「軽いから」という説明は現象に対する説明で、

「足の裏が平面だから」という説明は構造に対する説明だからだ。


構造で見る、というのは、

何か特別な才能ではないのだと思う。


ただ、

見えたものを見えたまま名前にして終わらせない、

ということなのかもしれない。

私はたぶん、その後ずっとその練習をしてきたのだと思う。


対話の中で、

  • 問題のように見えるものを、問題のまま受け取らないこと。
  • 起きている現象の手前にある前提を見ること。
  • 形ではなく、土を見ること。

そういうことを、何年もかけて少しずつやってきた。


だから今になって、

昔見ても読み解けなかったマグリットが、

前より少しわかる気がしている。


もちろん、急に全部理解できたわけではない。

わかった気がする、くらいのものだ。


でも、その「わかった気がする」という感覚は、

昔の私にはなかった。


ただ不思議だったものが、

今は少し、構造として見える。

それだけで、絵の見え方はずいぶん変わる。


シュールというのは、

奇妙なものを描くことではなく、

見慣れたものの見え方をずらすことなのかもしれない。


そしてそのずれた瞬間に、

私たちは初めて、自分が何を見ていたのかに気づく。


マグリットは、

絵を描いていたというより、

認識の壺を、静かにひっくり返していたのだと思う。


構造で見る、というのは、

たぶんそういうことなのだ。


Hitomism 2.0 Epi.1 「構造で観る朝」

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