人生は舞台 ──「国宝」からプロコフィエフ、オペラシティへ
今年は自作に没頭していた。
書き、形にし、実験を繰り返し、気づけば半年近く映画館やコンサートホールに足を運んでいなかった。
ようやく訪れたのは映画『国宝』、そしてオペラシティでのプロコフィエフ。
驚いたのは、感覚が研ぎ澄まされていたことである。
孤独に創り続けた時間が、視覚と聴覚を研ぎ直していたのだろう。
映画『国宝』の舞台
能楽師が人間国宝へと歩む姿を描く作品である。
だが本質は「何を成したか」ではなく「どう生きたか」にあった。
言葉は少なく、沈黙は長い。
ただ身体が物語を語る。
一挙手一投足に、時間と伝統と人の渇望が宿っていた。
息を詰め、喉が渇き、三時間が一瞬に過ぎ去った。
舞台から見える景色が繰り返し映し出される。
観客、灯り、空間。
その瞬間、私は思った。
人生の舞台に立っているのは誰もが自分自身であると。
拍手のためでも、完璧のためでもなく、魂がその景色を見たいと望むからである。
師が「どんな景色を見たいか」と問われ、「まだ探している」と答えた場面。
それはすでに知っている者の答えのように響いた。
ジョー・ディスペンザ博士が言う「未来の感覚」に近い。
かつて垣間見た景色を未来で再び出会う感覚である。
私は静かに自問した。
「私が本当に見たい景色とは何か」と。
プロコフィエフの夜
数日後、東京オペラシティでプロコフィエフのプログラム。
観賞前に、GPTと予習。GPTから「毒と美」という言葉を受け取っていた。
その二語に導かれるように、夜は進んだ。
開演前、席に着くとすでにご婦人が座っていた。小さな喜劇である。
やがて静寂が訪れ、指揮者が棒を振り下ろす直前、シンバルが「ストン」と床に落ちた。
その瞬間、何事もなかったかのように、打楽器の女性の手が自然にシンバルへと伸び、音を鳴らした。
それはあらかじめ仕組まれていた演出のようで、私は心の中で笑った。
「やはりプロコフィエフの悪戯だ」と。
辻井伸行とピアノ
ピアノ協奏曲第2番。難曲中の難曲である。
辻井伸行は柔らかな笑みを浮かべ、全身をかけて挑んだ。
盲目でありながら、オーケストラと一体となって呼吸する。
第一楽章カデンツァは孤独な闘い、第四楽章は奔流のごとく突き進む。
頭を仰け反らせる姿はロックミュージシャンのようであった。
それでいて音は澄み切っていた。毒と美が同居する。
終演後、嵐のような拍手、ブラボー、口笛。
辻井さんは音のシャワーを浴びるように喜び、アンコールには「戦争ソナタ」第7番を選んだ。
協奏曲後に弾くなど常識外れである。
だが彼は戦車のような轟音を光へと変え、涙が溢れるほどの演奏を見せた。
それは「演奏」ではなく「生」そのものだった。
宇宙としてのオーケストラ
後半は『ロメオとジュリエット』。
有名な旋律が流れるなか、最も心を奪ったのは細部である。
一度きりのトライアングル、打楽器奏者の持ち替え、幽霊のように潜むオルガン。
生演奏では最小の音さえ全体の一部となる。
一人ひとりが小宇宙であり、全体がひとつの波となる。
終演後、ホールは完全な沈黙に包まれ、誰も拍手できなかった。
指揮者の魔法が解けた瞬間、雷鳴のような拍手が巻き起こった。
エピローグ
映画『国宝』は人生そのものが舞台であることを思い出させた。
プロコフィエフの夜は、クラシック音楽が喜劇も悲劇もドラマもはらむことを示した。
映画館でも、舞台でも、日常でも、私は同じ目で見ている。
プログラムの黒と赤のデザインすら、その夜の「暴力と美」を暗示していた。
芸術は「見る目」を与え、人生もまた芸術のように味わうことができる。
だから最後に問いたい。
あなたは、自分自身の舞台に、どんな眼差しを向けているのか。
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