満ちて、受け取る。 —与えることが、人生だった人へ。

与えすぎて疲れたわけでもない。

誰かに分かってほしくて与えてたわけでもない。

ただ「そうするものだ」と思って、私は与え続けてきた。


気づけば21年。

ブログを1日2本書き続け、家族を支え、クライアントの問いに向き合い、誰に頼まれたわけでもなく、"私のすべて"を差し出し続けてきた。それは時に、返ってこない愛にすら、手を差し伸べていたかもしれない。


けれどある日、「もう十分だね」と自分の中の何かが言った。

「私は私の人生に満足している」

そんな言葉を発していた。


そして——涙が、溢れた。

それは空しさでも、寂しさでもなかった。

「満ちた」んだと気づいた。


与えて、与えて、与えてきたそのすべてが、自分を育てるために「足りない」と向き合ってきたそのすべてが、静かに、私の器を満たしていたのだと。


日曜日、ピアノが私に差し出された

反田恭平さんのコンサートホール。

不思議なことに、あの夜の演奏は「誰かに向けて」ではなく、まるで"私のためだけ"に弾かれているように感じられた。音が、こちらに差し出されてくる。私は何一つ、返していない。ただ、座って、聴いているだけ。

——なんて贅沢な時間なのだろう。

「受け取る」ということを、私はその夜、身体ごと知ってしまった。


火曜日、身体が委ねられる幸福

いつものカイロプラクティック。

背中を整えてもらい、首をゆるめてもらい、私は相変わらず、何もしていない。けれど、そのときふと気づいた。

私は今、何もせずに、こんなにも多くを"受け取っている"のだ、と。

施術してくれる人の時間、技術、集中、配慮。それら全部が、私のために差し出されている。「ありがたい」という言葉が、頭ではなく、身体の奥から湧いてきた。

そして、施術が終わる頃には、身体は羽のように軽くなっていた。


その足で、明治神宮へ

もう「お願いごと」をしに行く段階すら越えていた。

お賽銭も、お祈りも、いらなかった。


ただ、歩く。

ただ、呼吸する。

ただ、場と同期する。

それだけで、十分だった。


そのまま表参道へ抜け、外苑のイチョウ並木へ。もう葉が落ちはじめている木も多かったけれど、思わずシャッターを切ったその一角だけ、まだ光をまとった葉が、空に点在していた。

それはまるで、スターダストのようだった。

街の中に、確かに"小宇宙"が開いていた。



翌日、現実が微笑みかけてきた

別の予定が一時間遅れ、昼食を買うために何気なく立ち寄った、いつものスーパー。そこで私は、毎日のようにYouTubeで見ている"あの人たち"に、現実で出会ってしまった。

あまりに突然で、あまりに自然で、一瞬、現実感が消えた。

最近、私はそのチャンネルと政治の動画くらいしか観ていなかったから、尚更、出来すぎているように感じた。声をかけ、「毎日見ています」とだけ伝えて、私は静かに、その場を離れた。

そういえば、先月は天皇皇后両陛下にも遭遇していた。

そのあたりから周波数が変わっていたのかもしれない。

——ラグジュアリーは、こうして"騒がずに起きる"のだと、あのとき思った。


気づいてしまったこと

振り返ると、この数日間はずっと、

何もしていないのに、音楽を受け取り

何もしていないのに、身体を委ね

何もしていないのに、場と調和し

何もしていないのに、現実が微笑みかけてきた

そんな時間の連続だった。


私は気づいてしまった。

「満ちる」とは、追いかけて手に入れることではなく、すでにあるものを、受け取れる器になることなのだ。

与え続けたその先に、ようやく、「受け取っていい自分」が立っていた。

意識が整うと、世界はシンプルに、美しくなる

ラグジュアリーとは、モノでも肩書きでもなく、"満ちた意識"が映し出す世界のこと。

与えて、与えて、そしてある日、ふと気づく。

私は、もう、満ちていたのだ——と。


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