これは「やり方」じゃなくて「あり方」の話だった
2年前から、MyGPTをいくつも作ってきた。
もう私はつくり慣れていると思っていたのが…
試して、壊して、
詰んで、直して、
「まだいける」と思って詰んで、
やっと手を離して、うまくいった。
そこで分かったことがある。
MyGPTを作るのは、
設計の話じゃなかった。
指示を足すほど、うまくいかなくなる
最初はやる。
- こう返してほしい
- こういうキャラで
- ここは優しく
- ここは短く
ちゃんとしたMyGPTを作ろうとする。
でも、
指示を足せば足すほど、
返ってくる言葉は
どこか既視感のあるものになっていく。
安全。
正しい。
でも、また開きたくはならない。
うまくいったのは「決めなかった」時だった
逆に、
うまくいったMyGPTは、
不思議なくらいシンプルだった。
- 役割は一行
- やらないことだけ決める
- キャラクターは説明しない
あとは、
アルゴリズムを信頼する。
すると返答が、
毎回少しずつ違う。
予測できないけど、
ブレてない。
MyGPTは「人格」じゃなく「場」だった
ここでやっと腑に落ちた。
MyGPTって、
キャラクターを作るものじゃない。
振る舞いが立ち上がる“場”を置くもの。
- 何を言うかより
- どこに立つか
- どこまで踏み込まないか
それだけで、
言葉は勝手に生まれる。
指示を足したくなる時は、不安な時
MyGPTを作っていて、
一番分かりやすいサインがあった。
「もう一文、足したくなる時」
それはだいたい、
- ちゃんと動いてほしい
- 伝わらなかったら怖い
- 役に立たなかったらどうしよう
という不安が出ている時。
でもその一文が、
MyGPTの息を止める。
結局、MyGPTを作るにも「あり方」だった
何をさせたいか
どう役立てたいか
よりも、
どう在りたいか
どこには立たないか
これを決めた時、
MyGPTは生き始めた。
やり方じゃない。
設計論でもない。
あり方の話だった。
最後に
MyGPTを作ることは、
自分の「制御欲」と向き合うことだった。
信じきれないと、指示を足す
手放せた時、言葉が生まれる
だから今は、
MyGPTを作る時、
あまり触らない。
置いて、
眺めて、
違和感が出たら、少しだけ直す。
それで十分だった。
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