最近、対話の形さらに進化した。
私は20年前から、セッションのあとにフィードバックも書いていた。
クライアントさんとの対話を、作品のような形にまとめることもしてきた。
今思えば、それだと私のフィルターを通してだけのものだったかもしれない。
今では、AIがいる。
対話の文字起こしも簡単にできるようになり、
いくつものAIに渡せば、AIの視点の数だけ、言語化、分析できるようにもなった。
そして、対話作品として、小説のような読み物にもすぐにできる。
1回の20分や60分の対話が、さまざまな形を通して、
どこまでも客観的に見ることができるのだ。
客観的に見ることができるというのは、第三者視点であり、
まるで、他人事のような顔色をしている。
だから、身体から抜けていく。
つまり、身体は過去の記憶だから、解ける。
人は、自分のことを自分の中から見ている。
当たり前のことだけど、これはかなり不自由なことでもある。
一人称で話している間、人はその体験の中にいる。
感情も、判断も、反応も、全部「今ここにいる自分」を通して処理されている。
だから、自分が何を疑っているのか、
どんな前提の上で動いているのか、
なぜ同じところで止まるのかが、
その中にいる限り、なかなか見えない。
これは意志の問題でも、頭の良し悪しでも、ない。
構造の問題だ。
対話というのは、もともとその構造を少し揺さぶるものだった。
話すことで、自分の外に言葉が出る。
出た言葉を、相手が受け取る。
受け取られた言葉が、また自分に返ってくる。
その往復の中で、「ああ、自分はそう思っていたのか」と気づくことがある。
一人では見えなかったものが、少し見えてくる。
でも、それでもまだ、対話はリアルタイムで起きていた。
話しながら気づく。その場で受け取る。
だからどうしても、まだ「中にいる自分」が処理している。
今、そこが変わった。
対話が記録され、言語化され、あとから読み返せるようになった。
しかも、物語として。流れとして。まるで他の誰かの話のように。
ここが決定的だと思う。
自分が話したことを、自分が読む。
でも、そこに書かれているのは「一人称の自分」ではなく、
少し距離のある、三人称の誰かとして描かれた自分だ。
その距離が、何かを解く。
実際に、こんな感想をいただいた。
『対話作品』を読ませていただきました。自分が話したこととは別の誰かの話のように感じられ、ストーリーの世界観に吸い込まれるようでした。今は『これでいい』と肚に落ちました。
人間の身体は、過去の記憶を保持している。
繰り返してきた反応、染み込んだ感情、積み重なった判断のクセ。
それが身体の中に層になって残っている。
でも、自分の物語を三人称で読む時、
身体はその出来事から少し離れる。
「あの時の自分」が、今の自分ではなくなる。
その瞬間に、固まっていたものが少し動く。
解けるというのは、たぶんそういうことだ。
セッションは、話して終わる場ではなくなった。
話す。記録される。言語化される。物語になる。読み返す。
そのプロセスの中で、一人称だった体験が、三人称として受け取り直される。
そして、身体に貼り付いていたものが、少しずつ剥がれていく。
これは、便利になったという話ではない。
対話が何をするものか、その定義が変わってきている、ということだと思う。
この体験を、一度受け取ってみたい方へ。
0コメント