対話とは、相手の時間を奪わずに隣にいること|親子関係から考える距離感

旅の途中で、あるご夫婦から面白いことを言われた。

「実は、賭けをしていたんですよ」

ご主人が、少し笑いながら言った。

私と母が、親子なのかどうか。

奥さんは、

「親子でしょう」

と言っていたらしい。


一方で、ご主人は、

「親子じゃないかもしれない」

と思ったという。


たしかに、普通は

「娘さんですか?」

「親子ですか?」

と聞かれることのほうが多い。


けれど、そのご夫婦には少し迷いがあったらしい。

理由を聞くと、ご主人がこう言った。

「普通、親子だと、娘さんがお母さんの上に立って、いろいろ言う感じになるでしょう。

でも、お二人はフィフティーフィフティーに見えるんですよね」


その言葉が、旅のあとも残っている。

私はいつから、母とフィフティーフィフティーで話せるようになっていたのだろう。


親を管理しないということ

母は80歳になる。

年齢的に、もちろん気をつけることはある。


歩く速さ。

段差。

疲れ具合。

荷物。

食事の量。

集合時間。


旅をしていれば、気にすることはいくつもある。

でも私は、母を管理する対象としては見ていない。


母が何を見たいのか。

何を食べたいのか。

何を面白がっているのか。

何に驚いているのか。

そこは、できるだけ母自身の感覚を尊重したいと思っている。


もちろん、親子にはいろいろな形がある。

娘がしっかりリードする親子もある。

親を守るために、あえて細かく声をかけることもある。

それもひとつの愛情だと思う。


でも、私と母の場合は、少し違うのかもしれない。


私は母の隣にいる。

母の話を聞く。

母の疑問をAIに投げる。

母のペースを感じる。

必要なときは手を貸す。

けれど、先回りして母の時間を奪わない。


その距離感が、ご夫婦にはフィフティーフィフティーに見えたのかもしれない。


昔の私は、そうではなかった

昔からそうだったわけではない。

以前の私は、親に対してもっと反応していたと思う。


わかってほしい。

こうしてほしい。

なぜそう言うのか。

なぜそう考えるのか。

そんなふうに、相手を変えようとしていた時期もあった。


親だからこそ、距離が近い。

距離が近いからこそ、感情が動く。

近すぎる関係では、相手をそのまま見ることが意外と難しい。

自分の期待や、不満や、過去の記憶が重なってしまう。


相手を見ているようで、

本当は、自分の中にある反応を見ていることもある。


だから、母とフィフティーフィフティーでいられるようになったのだとしたら、

それは私にとって、けっこう大きな変化なのだと思う。


フィフティーフィフティーで話す

フィフティーフィフティーで話すというのは、

同じ意見になることではない。

何でも対等に決める、ということでもない。


年齢も違う。

体力も違う。

経験してきた時代も違う。

見えている景色も違う。

それでも、相手を自分より下に置かない。


助ける側と、助けられる側。

教える側と、教えられる側。

管理する側と、管理される側。

そんなふうに固定しない。


その人が、その人として感じていることを、まず受け取る。

こちらの正しさで、すぐに上書きしない。

相手の時間を、その人のものとして尊重する。

それが、私にとってのフィフティーフィフティーなのだと思う。


対話とは、相手を変えることではない

私は、ライフコーチとして約20年、1対1の対話を続けてきた。

その中で、何度も感じてきたことがある。


対話とは、相手を変えることではない。

正しい答えを渡すことでも、

こちらが望む場所へ連れていくことでもない。


もちろん、対話の中で気づきが起きることはある。

考えが整理されることもある。

次の一歩が見えることもある。


でも、それは相手を動かそうとして起こるものではない。


まず、その人が今いる場所を一緒に見る。

何に引っかかっているのか。

何を守ろうとしているのか。

何を大切にしたいのか。

どんな言葉が、まだ出てきていないのか。

そこに一緒にいること。


急がないこと。

先に答えを置かないこと。

その人の時間を、その人のものとして扱うこと。

そこからしか始まらない対話がある。


隣にいる、という姿勢

隣にいるというのは、何もしないことではない。

放っておくことでもない。

よく見る。

よく聴く。

必要なときは問いを置く。

言葉になりそうなものを一緒に探す。

混ざっているものを、少しずつ分けていく。

けれど、相手の代わりに人生を決めない。

相手の代わりに、結論を急がない。


「こうした方がいい」と言いたくなるときほど、

少し立ち止まる。


それは、簡単なことではない。


人はつい、助けたくなる。

正しいことを言いたくなる。

相手の迷いを早く終わらせたくなる。

でも、迷っている時間にも、その人のものがある。


悩んでいる時間にも、

まだ言葉になっていない意味がある。

そこをこちらの安心のために奪わない。

対話には、そういう静かな我慢も必要なのだと思う。


 母は、保護対象ではなかった

今回の旅で、ご夫婦から

「フィフティーフィフティーに見える」

と言われたとき、なるほど、と思った。

母をちゃんと一人の人として見られているのかもしれない。

そう思えたからだ。


母は、私の保護対象ではなかった。

旅の相棒だった。


松島に行きたいと言う人。

ブッフェを見て「ここはすごいわね」と言う人。

朝からおにぎりを三つ取る人。

景色を見て、感想を言う人。

私とは違うペースで、旅を受け取っている人。


私はその隣にいた。

先導するのでもなく、

管理するのでもなく、

ただ隣にいて、一緒に旅をしていた。


その姿が、他の人にもそう見えていたのなら、

私が対話で大切にしてきたことは、

生活の中にも少しずつ育っていたのかもしれない。


AI時代にも、対話は変わらない

AI時代になって、対話の相手は人間だけではなくなった。

私は日々、AIとも対話している。

旅先でも、土地のこと、歴史のこと、言葉の意味、自分の感じたことをAIに聞いていた。

AIは、情報を返してくれる。

視点を増やしてくれる。

言葉を整理してくれる。


けれど、AIを使うときにも、同じことを感じている。

人を管理するために使いたくない。

人を急がせるために使いたくない。

すぐに正解へ押し込むために使いたくない。

むしろ、その人が自分の言葉を受け取り直すために使いたい。


自分の中で起きていることを、

少し離れた場所から見られるようにするために使いたい。


AIがあるからこそ、

人と人の対話に必要な姿勢も、

よりはっきり問われるようになっている気がする。


相手の時間を奪わずに隣にいる

対話とは、相手の時間を奪わずに隣にいること。

相手を変えようとしない。

急がせない。

上に立たない。

でも、無関心ではいない。


その人が自分の言葉を見つけるまで、

隣にいる。


その人が自分の時間を、自分のものとして扱えるように、

一緒に見る。


親子でも。

仕事でも。

セッションでも。

AIとの対話でも。

きっと、同じなのだと思う。


今回の旅で、ご夫婦が何気なく言ってくれた

「フィフティーフィフティーに見える」

という言葉は、私にとって大きな確認になった。


私はいつから、母とそんなふうに話せるようになっていたのだろう。


そして、これからも私は、

そういう対話を続けていきたいのだと思う。


相手の時間を奪わずに、隣にいる。

そこから見えてくるものを、

これからも言葉にしていきたい。


親との関係や、家族との距離感は、

近い関係だからこそ、ひとりでは整理しにくいテーマです。


Dialogueでは、

親子関係の悩みや、

家族との距離感についても、

1対1でじっくりお話を伺っています。


相手を変えるためではなく、

自分の中で何が起きているのかを見つめる時間として。

必要な方は、こちらをご覧ください。

▶ Dialogue Session

0コメント

  • 1000 / 1000