私は、オートクチュールの人だった

森英恵展の一角。

ガラス張りのショーケースの中に、『私の一日』という雑誌の切り抜きがあった。

字が小さすぎて読めない。

それでも、どうしても読みたかった。

毎日『私の一日』を書いている身として、これだけは飛ばせなかった。

ChatGPTに写真を4分割してもらい、文字起こしをお願いした。

出てきた内容に、驚いた。


「確実な売れ筋の狙える既製品だけにしぼって、ひとつのパターンを数多く出したら、どんなにラクだろうと……、実のところ、そんな誘惑にかられることもある。」

森英恵ですら、そう思うことがあったのか。


オートクチュールの世界を作ってきた人ですら、

「もっと効率よくできないか」

と思う瞬間があった。


でも、続く言葉が印象的だった。

「でも、それではデザイナーとしては堕落ではないかと思い返す。」

読んで、少し黙ってしまった。

これは、私の話でもあった。


もっと多くの人に届く形はないだろうか。

もっと分かりやすく、もっと売れやすく。

そう考えたことは、何度もある。

でも気づくと、私はいつも同じことをしている。


一人と対話をする。

その人の言葉を聴く。

セッションのあと、AIと一緒にフィードバックシートを作る。

音声でも振り返れるようにする。

必要なら、その人専用のGPTとの対話の入り口も作る。


気づけば、一人のために何時間もかけている。

効率は、驚くほど悪い。

でも、たぶん私はこれを作りたいのだ。


既製服ではなく、オートクチュールを。

一人ひとりに合わせて、時間をかけて、対話を重ねて、縫い直していく。



面白かったのは、森英恵さんが当時すでに「流行通信」という会員コミュニティを作っていたことだ。

世界の最新情報を届け、研究会を開き、コレクションに招待する。

今でいう、メルマガ。サブスク。コミュニティ。

オートクチュールを作る人は、作品だけを作っているわけではない。

世界観を共有する場所も、入口も、仲間が出会う場所も作っている。

コレクションそのものは、相変わらず一点物のまま。


薄めずに、届け方だけを広げていった。

規模が大きくなっても、深さは薄まらない。

そういう型が、もう何十年も前から、ちゃんとあった。


私はずっと、「知らない人にも届けたい」と思いながら、

やっていることは「一人ひとりを大切にする」ことだった。


この二つが矛盾していると思っていた。

でも、矛盾していたのは、二つを同じ物差しで測ろうとしていたことだった。


「広く届く」を数で測れば、オートクチュールは負ける。

でも「深く届く」に物差しを変えた瞬間、

コアなリピーターがいる、という事実そのものが、ひとつの答えだった。


届いていないかもしれない、というサバイバルモードは、

既製品の物差しを借りて、自分を採点していただけだったのだ。


今年は、リピーターの外に出ることを意識してみた。

Xやnoteで、知らない人からいいねやコメントをいただくことも増えた。

でも、やっていることは変わっていない。

外向きの発信をしてみたら、そういうことが起こりやすくなった、それだけだ。


外の反応より、もともとのプロセスに集中すればいい。

そう思えるようになったのは、

「オートクチュール」という言葉が、今までの自分をそのまま肯定してくれたからだと思う。


手に入りにくいものは、憧れになる。

薄めずに向き合った結果として生まれる希少さは、

広告で作られた広さとは、性質が違う。

丁寧にやった結果、自然と手に入りにくくなり、それが憧れになる。

この順番を、間違えないようにしたい。


まさか、なんとなく行った展覧会で、こんな気づきになるとは思わなかった。

でも、字の小さい切り抜きを、それでも読みたいと思ったこと自体が、

もうすでに、私の性質そのものだったのかもしれない。

効率よく展示を眺めて、次に行く人だったら、

きっとそこで立ち止まらなかった。


私は、オートクチュールの人だった。

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