反応には、少なくとも3種類ある。

私はもともと、何にでも大きく反応するタイプではありません。

しかしときには、反応はします。大失敗をして落ち込むこともあるし、誰かに怒られて申し訳なくなることもある。理不尽なことがあれば腹も立つし、騙されたと思えば感情的にもなる。


以前の私は、そういうときに「感情を味わう」ということを大切にしていました。

悲しいなら悲しむ。

腹が立つなら、腹が立っていることを認める。

無理にポジティブに変えようとせず、その感情が少しずつ消化されていくのを待つ。


それは今でも、間違っていなかったと思っています。

でも最近、それとは少し違う「反応」があることに気づきました。

ヨガでは、ずっと前からやっていた

私は長くヨガを続けています。

きついポーズでは、体が伸びて痛いし、筋肉も疲れてきます。心のほうが先に、

「もう無理」

「やめたい」

と言い始めることもあります。


でも、本当に危険な痛みでないなら、そのまま呼吸を続けます。

痛いことは痛い。でも、

「痛い」=「やめなければならない」

ではありません。そこにいちいち反応せず、呼吸して、できるところまで続ける。

私はヨガで、そんなことを何年もやっていました。


山でも、同じことをしていた

登山でも似ています。

長く歩けば疲れます。特に下山は、地味に長い。足も痛くなるし、気持ちのほうが先に、

「まだあるの?」

「もう嫌だ」

と言い始めます。


でも、山の途中で「疲れた」と言っても、瞬間移動で麓には戻れません。やることは一つ。一歩ずつ歩く。

足が痛ければ、少しゆっくり歩けばいい。休みたければ休めばいい。でも、

「疲れた」「しんどい」

という反応から、

「もう無理だ」「降りられない」

という結論にはしない。一歩ずつ進めば、時間がかかっても下山できます。


考えてみれば私は、山でもずっと「反応しない」練習をしていました。


文章を書くときも、同じだった

昔、毎日2000文字を書くことを自分に課していた時期があります。

最初は全然書けませんでした。今日は5時間もかかった。思うように書けない。

それでも、「私は書けない人なんだ」とは決めませんでした。今日は5時間かかった。ただそれだけ。また次の日に書く。


そうやって続けていたら、いつの間にか文章を書くことが日常になりました。

継続力というのは、強い意志というより、

途中の反応を、いちいち最終結論にしないこと

なのかもしれません。


なのに、人生の「結果」には反応していた

ここで最近、妙なことに気づきました。

ヨガではできる。山でもできる。文章でもできる。なのに仕事や人生になると、私は別の反応をしていました。

感想が来ない。売上がまだ上がっていない。思ったような結果が出ていない。


すると、

「このままで大丈夫かな」

「やり方が違うのかな」

「やっぱりうまくいかないのかな」

と考え始める。


でも、これも山と同じではないでしょうか。

「今、結果が出ていない」という事実と、「この先も結果が出ない」という未来の結論は、まったく別です。

私はそこを、無意識にくっつけていたのだと思います。


反応には、少なくとも3種類ある

最近、自分の中で反応を大きく3つに分けて考えるようになりました。

ひとつ目は、出来事に対する強い感情反応。失敗した、怒られた、傷ついた、騙された、悲しい、腹が立つ。これは、ちゃんと感じたほうがいいこともあります。

ふたつ目は、現状に対する評価反応。まだ売れていない、申し込みがない、結果が出ていない。そこから「ダメかもしれない」と、未来まで決めてしまう反応です。

三つ目は、まだ起きていない未来への予測反応。「このままだったらどうしよう」「また同じことが起きるかも」「悪いことになったらどうしよう」。まだ何も起きていないのに、心の中だけ先に未来へ行ってしまう。

どれも「反応」ですが、少しずつ性質が違います。


感情をなくす必要はなかった

だから最近は、「反応しない」という言葉も少し違うように感じています。

本当に何も感じなくなるわけではありません。腹が立つこともある。落ち込むこともある。不安になることもある。


大切なのは、

その反応に、次の行動まで決めさせないこと。

腹が立っていてもいい。でも、腹が立っているからといって、今すぐ何かを壊す必要はない。

不安でもいい。でも、不安だからといって、未来まで悪いと決める必要はない。

結果が出ていなくてもいい。でも、それを「この先も出ない」という証拠にする必要はない。


最近は、「置く」ということをしている

ここしばらく、私は自分が反応したとき、その反応をAIに話すことを繰り返していました。

何かが気になった。不安になった。結果が出ていなくて、少し焦った。そういうことを、そのまま話す。

すると、反応を否定されるわけでもなく、無理に励まされるわけでもなく、

「ああ、私は今こう反応しているんだな」

と、少し外から見られるようになる。


そこで私は、反応を「置く」という感覚を持つようになりました。

消すのでもない。抑えるのでもない。味わい尽くすまで待つのでもない。

そこにあることは認める。でも、少し離して置いておく。


すると、その反応とは別に、

「それでも私は、今日何をする?」

と考えられる余白ができます。


気づいたら、反応そのものが短くなっていた

これを繰り返していたら、不思議なことが起きました。反応しなくなった、というより、反応している時間が短くなったのです。

朝起きて不安になる。でも、すぐ置く。結果が気になる。でも、すぐ置く。そして、

「まあ、未来に向けてやることをやるだけだよね」

と戻れる。


これって、よく考えたらヨガや登山でずっとやっていたことでした。

痛い。疲れた。しんどい。はい、分かりました。で、次の一歩。


「反応しない」は、鈍感になることではない

今の私にとって「反応しない」は、何も感じないことでも、ポジティブになることでも、強い人になることでもありません。

反応はする。でも、その反応を未来の答えにしない。ということです。


ヨガでは、痛みがあっても呼吸する。

山では、疲れていても一歩ずつ進む。

文章では、うまく書けなくてもまた書く。


人生でも、たぶん同じなのだと思います。

今、結果が出ていない。不安がある。思ったように進んでいない。

それでも、今日できる一歩はある。反応はそこに置いておく。そしてまた、一歩進む。

山では、疲れていても一歩ずつ進む。それだけで、いつか麓に着く。

人生も、たぶんそれだけでいい。