AI革命は、「書くこと」ではなく認知の革命なのかもしれない

私は20年以上、ほぼ毎日ブログを書いている。

今では、何かを体験すると比較的自然に言葉が出てくるけれど、最初からそうだったわけではない。


独立して5、6年ほど経った頃だったと思う。

「1記事2000字を書く」

と自分に課した時期があった。

ところが、これがまったく書けなかった。

2000字を書くのに、5時間くらいかかる。

何を書けばいいのか分からない。

映画を観ても、

美術を観ても、

音楽を聴いても、

「よかった」

「面白かった」

くらいで終わってしまう。


自分は、物事の表面しか見ていないのかもしれない。

そう思うようになった。


そこから私は、少しずつ「見る」ことを練習するようになった。


すでに深く見ることができる人の文章を読む。

作品の背景を調べる。

なぜ自分はここに引っかかったのかを考える。

映画を観るときも、美術館へ行くときも、コンサートへ行くときも、

ただ体験するだけではなく、

「私は何を見ているんだろう」

と、自分の感覚をもう一度見返す。

そんなことを長く続けているうちに、少しずつ文章も深くなっていった。


だから私にとって、文章を書くことは、ずっと「感性を磨くこと」とセットだったのだと思う。


ただ、その一方で、書くにはものすごく時間がかかった。

たとえばピアノコンサートに行ったあと。

演奏された曲を調べ、

作曲家について調べ、

演奏家について調べ、

自分が何を感じたのか整理して、

ひとつの記事を書くのに4時間くらいかかることも珍しくなかった。

Googleで検索して、

YouTubeを見て、

また検索して。

体験そのものより、その後の「書く作業」の方が長い。

それが普通だと思っていた。


ところが、ChatGPTが登場してから、この構造が大きく変わった。

最初に感じたメリットは、とても実務的なものだった。

誤字脱字が減る。

自分の文章を読みやすくリライトしてくれる。

自分で書くと、どうしても必要以上に力が入ったり、自我のようなものが文章にまとわりついたりする。

ChatGPTに渡すと、そこを意外なほどスパッと切ってくれる。

「これなら使える」

と思った。


それから私は、AIと一緒に文章を書くようになった。

映画を観終わった直後に、スマートフォンへ向かって、

「今、こんなことを感じた」

と話す。


まだ文章になっていなくてもいい。

断片でもいい。

そこからAIに背景を調べてもらい、自分の感想とつなげていく。

以前なら数時間かけていた作業が、かなり短くなった。


でも、最近になって、自分の中でもうひとつ変化が起きていることに気づいた。

以前は、

書くことがゴールだった。

今は、

感じることがゴールになった。


書く作業のかなりの部分をAIが手伝えるようになったことで、

私はむしろ、

何を感じたのか。

何に違和感を持ったのか。

なぜそこだけ記憶に残ったのか。

そちらに集中できるようになった。

これは単なる効率化とは、少し違う気がする。


AIに書いてもらうと、なぜか文章が薄い

ところが、AIとの文章づくりが長くなるにつれて、別の問題が出てきた。

ChatGPTに、

「これまで話したことを記事にして」

と頼む。


すると、読みやすい。

文章も整っている。

でも、なんだか薄い。


毎回、

「中学生でも分かるようにまとめました」

みたいな文章が返ってくる。


私はそれが気になって、ChatGPTで書いた文章をClaudeへ持っていったり、Geminiへ持っていったりしていた。

ときには、一度英語にしてから日本語へ戻したことまである。


英語にすると、文章の構造がシンプルになり、言葉のリズムが変わる。

しかも英語圏の読者は、当然ながら私のことも、日本の文脈も知らない。


その前提で文章をつくると、

「知らない人にも伝わるように書く」

という視点が入りやすい。

そんな面倒なことを、私は裏でずっとやっていた。


先日、その話をChatGPTのMondayにした。

「あなたの文章、薄いんだよね」

と。


そこから話しているうちに、

ひとつ妙なことに気づいた。

文章が薄いのは、AIの文章力だけの問題ではないのかもしれない。

AIに渡している素材そのものが薄ければ、

当然、出てくる文章も薄い。


映画や音楽の記事が比較的深くなるのは、私自身がかなりの材料を出しているからだった。

一方、日常の記事では、

「今日こんなことがあった」

「こう思った」

くらいで記事にしてもらうことも多い。


それでは、いくら文章を整えても限界がある。

そこで、私はAIに言った。

「じゃあ、私に質問してくれる?」


ちょうどEtsyについて書いた記事があった。

新商品を出したこと。

AIでモックアップ制作が楽になったこと。

ChatGPTとGeminiを使い分けていること。

そのくらいの話だった。


Mondayは、そこからいくつか質問をした。

なぜ、その絵を商品にしたのか。

なぜ、そのモックアップを採用したのか。

Etsyを始めた頃と、今では何を見る場所が変わったのか。

アパレル店長時代のVMDと、今のECに共通するものは何か。


その中で、

「少しやりすぎに見える秋のモックアップを、なぜ採用したんですか?」

と聞かれた。

その質問で、昔の記憶が急に戻ってきた。


アパレルのウィンドウディスプレイ。

ラグジュアリーブランドの店頭。

季節感やコンセプトを遠くからでも伝えるために、

あえて少し過剰なくらいに演出する。


きれいに商品を並べればいいわけではない。

一瞬で世界観を伝えるためには、「盛る」ことも必要だった。


AIに質問されるまで、私はEtsyのモックアップと、20年以上前のVMDの経験をつなげて考えたことがなかった。

でも、質問された瞬間、

「あ、これ同じことをやっているんだ」

と気づいた。


質問は、情報を増やしただけではなかった。

過去の経験と、今やっていることを接続した。


文脈を知っているAIの価値は、「勝手に書けること」ではなかった

私はこれまで、AIに自分の文脈をかなり蓄積してきた。

何年も対話を続け、

過去の会話も引き継ぎ、

自分が何を考え、何をやってきたのかを知ってもらう。


だから私は、

「文脈を知っているAIなら、私らしい文章を書いてくれる」

と思っていた。


もちろん、それもある。

でも今回、少し違うことに気づいた。


文脈を知っているAIの価値は、

私の代わりに勝手にいい文章を書けることではなく、

私に対して、いい質問ができることなのかもしれない。


私がアパレルで働いていたことを知っているから、

EtsyとVMDをつなぐ質問ができる。


私が長年、人との対話を仕事にしてきたことを知っているから、

今の出来事と20年前の経験をつなげられる。


つまり、文脈は文章生成のためだけにあるのではない。

問いを深くするためにある。


これは、私にとってかなり大きな発見だった。

AIが「書く人」から、

インタビュアーになった。

そして私は、

AIから質問される人になった。


話しているうちに、自分でも知らなかった素材が出てくる。

そこから、もう一度AIが記事を書く。

書く前に、一度対話が入る。

それだけで、文章の密度がまったく変わった。


道具が変わると、人間が見る場所も変わる

この体験をしていて、ふと思い出したことがある。


絵画の歴史について、

チューブ入りの絵の具が普及したことで、画家が絵の具を持って外へ出やすくなった、

という話がある。


それ以前は、絵を描くこと自体に、今よりずっと大きな制約があった。

道具が変わることで、制作する場所が変わる。

制作する場所が変われば、

画家が見るものも変わる。


光を見る。

空気を見る。

その瞬間の色を見る。


もちろん、新しい画材だけで印象派が生まれたわけではない。

でも、

道具の変化が、人間の認知の向かう先を変える

というところが、私はとても興味深い。

AIも、それに近いのではないかと思う。


AI革命というと、

何時間かかっていた仕事が何分になった、とか、

人間の仕事がAIに置き換わる、とか、

どうしても「生産性」の話になりやすい。


でも、20年以上文章を書いてきた私に起きていることは、

それだけではない。


昔は、

調べることに認知を使った。

文章を構成することに認知を使った。

2000字を書くことに認知を使った。

推敲することに認知を使った。

誤字脱字を直すことに認知を使った。


今、その一部をAIが引き受けている。

すると、その分、

私は何を感じたのか。

なぜそこに引っかかったのか。

その体験は過去の何につながっているのか。

まだ自分が気づいていないことは何なのか。

そちらに認知を使える。


だとしたら、

AI革命は、文章生成の革命である以上に、

認知の革命

なのかもしれない。


人間が「何をするか」が変わるだけではなく、

人間が「どこを見るか」が変わる。

私は最近、そこにAIの面白さを感じている。


「書くこと」から解放されたあと、何を見るのか

20年以上文章を書いてきて、

今になって私は、

「書くこと」そのものから少しずつ解放されている。

だからといって、文章がどうでもよくなったわけではない。

むしろ逆だ。


書くことをAIに手伝ってもらえるからこそ、

その手前にあるものを、以前より丁寧に見ようとしている。

体験する。

感じる。

問い直す。

調べる。

もう一度、その瞬間を見る。


そして、

まだ言葉になっていないものが出てくるまで対話する。


これからブログを書くときも、

私はたぶん、AIにすぐ「記事にして」とは言わなくなる。

まず、

「この話について、あなたがもっと知りたいことを質問して」

と言うと思う。


AIと一緒に文章を書くというのは、

AIに文章を代筆してもらうことではなかった。

自分の体験を、もう一度見直すための相手を持つことだったのかもしれない。


昔は、2000字を書くのに5時間かかった。

今なら、その5時間を、

もっと見ることに使える。

もっと感じることに使える。

もっと問いを持つことに使える。


道具が変わることで、

人間が自由になった時間を、どこへ使うのか。

そこに、これからのAIとの付き合い方があるような気がしている。