許したら終わりになること。

 「なぜ、○○事件が終わらないんでしょうかね?」と国際問題にもなっていることについて、クライアントさんが自分のことと重なり合わせるように語り始めました。クライアントさんが十分お話しが終わるまで待ってから私が「許してないからですよ」と言うと、「ひとみさん、もう答えが先にわかっていたようですね~」クライアントさんにばれてしまいました。(笑)

 引き続きクライアントさんの現在の問題について話をされて、「自分がやったことだから…」と発言した瞬間に、「あ、自分を責めている発言だ、これは」とご自身で気づかれました。
 それから、相手の特徴について話をされてから、「相手を許そうと思っても、いろいろと相手がまた工作してくるので、だんだんとコノヤローになってしまい、やっぱり相手を許すことは難しいですよね…」とおっしゃいました。

 人によっては裁判沙汰にする人もいるかもしれないというような出来事に、私は出くわしたことがありました。そのとき色々考えましたが、結局は「自分が選んだことだから」と未熟な自分も認めて、そこから学びを得て、相手も許して先に進むしかなかったのです。
 クライアントさんのことは、もっと混み入っていることですが、やはり許して、自分の学びを得て、自分を責めるのをやめて、先に進むことを考えたときに、ようやく終わりそうです。

 話は次に進み、「執着を手放す」ということについて意見のやり取りをしました。
「○○になりたい」とか「○○が欲しい」とモノに執着してしまいがちなところをどうすればいいのか?と。
考え方としては、「○○を得て、どんな感情を味わいたいのか?」ということまで考えると、「○○」というところは、囚われなくなります。

 例えば私の手に入れたいものは、「感動を提供する機会を持ちたい」ということだとすると、「○○」に縛られないので、ライブを開催することもあれば、セッションの場もそうですし、写真を撮ることも、こうして毎日記事を書くことも、そういうことにつながるのです。すると、いつでも自分の味わいたいことは手に入っていくのです。
 執着を手放すということは、そういう「モノ」みたいなものにこだわる必要はないよ、ということなのかと考えています。クライアントさんも、その辺りがクリアになったところで、また話は「許すこと」になっていきました。
 
 「どうすれば、自分を責めるのをやめられますかね?」と。
 「責めると、ろくなことないから、やめた!って言うだけです」と私は答えました。

 もう2年半前の話なので、今なら笑い話にできることなのですが…。
 南仏のエクサンプロバンスへひとり旅で行ったときのこと。iPhoneでGoogle mapを見ていたのですが、フランスの道は、東京よりも込み入っていて、地図が読めないんですよね。(笑)なかなか辿りつきたい広場につけなくて、私も歩きすぎていました。
 やがて、ひとりごともかなりやけっぱちになり、自分の頭の悪さとGoogle mapに「クソ!!!」と責めまくりながら歩き、ようやく噴水の広場に着いたのです。そうしたら、なんと、鳩のフンが私の頭に落ちるという悲劇に出くわしてしまいました。服じゃなくて、頭です。私の叫びは、どうやら神様に届いてしまったようでした。(笑)

 先日、原宿で友人とパンケーキ屋で並んでいるときに、ポタっとまたアレが落ちてきました。今度はなんと私と友達の間に落ちたので道路に着地です。もう、自分を許すことが完了出来たのだなと思いました。(笑)
 その話をするとクライアントさんは、「ひとみさんも、そういうことがあるんだと知って、ホッとした」と爆笑していました。(笑)

 そう、責めるとろくなことないんです。

 相手にコノヤローと思っても、自分のせいで…と思っても、仕方のないこと。どうすれば終わりになるか? 「許したら終わりになる」ということが、きっとクライアントさんにも必要なことなのだろうと、だんだんとこれからのアクションについても、具体的になっていきました。
 自分のこと、相手のことを許す(ありのままを認める)こと。そして自分が未熟だなと思うところは学習して、自分を変えていくことが成長につながるのだと思います。

 継続でセッションをされている方で、毎回「自分を許す」ということが、チラチラっと出てきましたが、段々と許してはいるものの、かなり根が深いようです。今回でさらっと突破できるといいなと思います。それにしても、私のフンの話では、安心されすぎましたね。(笑)

 今日はこちらの質問はいかがでしょうか?

自分の使っている言葉、気をつけていますか?