以前にクライアントさんだった人から、不愉快なことがあったからということで、こんなとき堀口さんはどう解釈されますか?という相談メールを頂きました。
そのお返事を書きながら、まるで自分が以前友達に対して失敗したことのデジャブのような、逆バージョンを感じました。クライアントさんは、不愉快になってしまった側で、以前の私は不愉快にしてしまった側だったので。
私の身に起こったこと…。私は、友達に悪気はない行為だった、だけど向こうからしてみたら謝ってほしい事だったことがありました。
その時、客観的にみていた周りの人たちは、あなたは悪くない、と言ってくれる人ばかりでした。相手の方に問題がありそうだと示唆する人までいました。相当落ち込んでいたので、その時はとても救われた気持ちになりました。
私は、沢山謝ったつもりです。が、友達とはもう会わなくなってしまいました。
謝った直後、私が悪かったところがあったとしたらどこだったのだろう?と考えて猛反省ました。その後、新しい考え方を私も持てるようにはなりました。
でも、ずっと私が悪かったと責めることは止まりませんでした。つい最近まで。
そこが、しこりになっていたことは、去年の夏にその話がぶり返されたときに、知人に「周りは悪くないと言っていたみたいですが、実際どんなことが起こっていたんですか?」と、事実を突っ込まれたことに対して、自然と涙が出てきたので、初めて感情の部分でまだ消化できていないことがあったとわかりました。
自分の未熟だった点は、その時に反省して、いろいろと出てきて、その反省が色々なところで活かせたことがありました。だから、もうすべては消化していたと思ってたのに…。
それでは、半分だけ受け入れていた状態だったのかもしれません。自分が悪かった、とだけして、相手はそれからどう思っていたのかどうか?、全く相手に対しての想像力を働かせることはありませんでした。きっと、そこまでどまりだと、実は本当に受け入れたところまでいっていなかったんですよね。(今、こうして言語化できているということは、あれから受け入れが進んだからだと思います)
相手にどんな事情があったとしても、どんなに相手が謝ってきたとしても、今起きている事実は事実として受け入れるしかない。この場合、メールなので事実関係があまり見えてはいませんでしたが、最後は「相手を許せますか?(受け入れられますか)」という言葉に終息しました。それで、私の友達は、その後、私のことを受け入れてくれたのかな?ってちょっと思い出しました。
一つの事実に基づいて、もしかして相手はこういう事情があって、どうしようもなくなって、直接面と向かって話すのが難しくなっているのではないか?と想像力を働かせてみる。そう、想像してみるだけでも、自然と受け入れ始めているのではないかと思います。
自分が悪かったです、これからはこうしますので許してください、というところまでは、経験を受け入れたのみなのでしょう。
相手のことは相手にしかわからないけど、どうだったのかな?って、相手のことも想像してみたり、そう想像してみた時に、自分の感情はどうなるのか? みてみることで、感情の方も受け入れることができる。
昨年の夏に、以前の失敗話がぶり返した時に、涙がでたのをきっかけに、その時のことをもう一度再構築した後からは、自然と自分の中で、自分が聞いて欲しかった自分の声に耳を傾けてあげられた気がしたのか? 深いところで何かが変化した感じがしています。
私は、受け入れるとはそういうことなのかなと考えています。
今日はこちらの質問はいかがでしょうか?
過去の気になったところを振り返ることはしていますか?
そのお返事を書きながら、まるで自分が以前友達に対して失敗したことのデジャブのような、逆バージョンを感じました。クライアントさんは、不愉快になってしまった側で、以前の私は不愉快にしてしまった側だったので。
私の身に起こったこと…。私は、友達に悪気はない行為だった、だけど向こうからしてみたら謝ってほしい事だったことがありました。
その時、客観的にみていた周りの人たちは、あなたは悪くない、と言ってくれる人ばかりでした。相手の方に問題がありそうだと示唆する人までいました。相当落ち込んでいたので、その時はとても救われた気持ちになりました。
私は、沢山謝ったつもりです。が、友達とはもう会わなくなってしまいました。
謝った直後、私が悪かったところがあったとしたらどこだったのだろう?と考えて猛反省ました。その後、新しい考え方を私も持てるようにはなりました。
でも、ずっと私が悪かったと責めることは止まりませんでした。つい最近まで。
そこが、しこりになっていたことは、去年の夏にその話がぶり返されたときに、知人に「周りは悪くないと言っていたみたいですが、実際どんなことが起こっていたんですか?」と、事実を突っ込まれたことに対して、自然と涙が出てきたので、初めて感情の部分でまだ消化できていないことがあったとわかりました。
自分の未熟だった点は、その時に反省して、いろいろと出てきて、その反省が色々なところで活かせたことがありました。だから、もうすべては消化していたと思ってたのに…。
それでは、半分だけ受け入れていた状態だったのかもしれません。自分が悪かった、とだけして、相手はそれからどう思っていたのかどうか?、全く相手に対しての想像力を働かせることはありませんでした。きっと、そこまでどまりだと、実は本当に受け入れたところまでいっていなかったんですよね。(今、こうして言語化できているということは、あれから受け入れが進んだからだと思います)
相手にどんな事情があったとしても、どんなに相手が謝ってきたとしても、今起きている事実は事実として受け入れるしかない。この場合、メールなので事実関係があまり見えてはいませんでしたが、最後は「相手を許せますか?(受け入れられますか)」という言葉に終息しました。それで、私の友達は、その後、私のことを受け入れてくれたのかな?ってちょっと思い出しました。
一つの事実に基づいて、もしかして相手はこういう事情があって、どうしようもなくなって、直接面と向かって話すのが難しくなっているのではないか?と想像力を働かせてみる。そう、想像してみるだけでも、自然と受け入れ始めているのではないかと思います。
自分が悪かったです、これからはこうしますので許してください、というところまでは、経験を受け入れたのみなのでしょう。
相手のことは相手にしかわからないけど、どうだったのかな?って、相手のことも想像してみたり、そう想像してみた時に、自分の感情はどうなるのか? みてみることで、感情の方も受け入れることができる。
昨年の夏に、以前の失敗話がぶり返した時に、涙がでたのをきっかけに、その時のことをもう一度再構築した後からは、自然と自分の中で、自分が聞いて欲しかった自分の声に耳を傾けてあげられた気がしたのか? 深いところで何かが変化した感じがしています。
私は、受け入れるとはそういうことなのかなと考えています。
今日はこちらの質問はいかがでしょうか?
過去の気になったところを振り返ることはしていますか?
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