「曖昧」にしておけるようになったとき、「思いこみ」からだいぶ脱出している状態である。

 7.7の夏コミ『曖昧』ミーティング2回目を行いました。
前回のミーティングでは、「曖昧」という漢字に「お日様のような愛の目で未来を見る」を見出しいたところで、終わりました。
 今日のミーティングでは、「曖昧→考え続けること」にフォーカスが当たりました。

 「白黒つけること」は、「考え続けることを放棄している」ともいえるのではないでしょうか。曖昧にしておくことで、考え続けるのです。

 事実を見ないで、白黒つけようとする人がいます。いわば、「思いこみ」です。
例えば、単発コーチングのお申し込みを頂いたときに、相手の方がメールアドレスを間違えたか、迷惑メールに行ってしまったか、こちらの自動返信メールの設定ミスなどで、返信メールが届くべき時間に届かないことが稀にあります。そして私が再度確認のメールをすると、「来なかったということは、今回はご縁じゃなかったのかなと思ってしまいました」と返事が来たことがありました。

 「もしかして、こんな事実があるのかもしれない」と考えずに「ご縁がなかったから」と自己完結しているように思えます。そういう取り方は、シンクロニシティーではありません。色々と事実でありそうなことを確かめてみたらどうでしょうか? と言いたくなる場面です。

 かくいう私も、勝手に想定することがありました。白黒つけてしまい、次に進みたいというせっかちな感じです。
 
 今は、コーチングをしながら、「曖昧力」が鍛えられたようで、ハプニングはあって普通と思っています。想定内であり、そうなった場合の対応策まで考えているので、冷静でいられます。どんなことが起きても、それはそれで対応します。
 以前は、そこまで考える人のことを、「考えすぎる」と思っていました。悪いことを想像しているように見えたからです。まるで、悪いことが起きることが当然のように考えているようで、そこまで想定しなくてもと・・・。

 しかし、今、自分が色々と考えて想定する人になったら、生きるのが楽になりましたし、さらに、受け入れる力、包容力が生まれた気がします。また、対応力が身についてくるので、詰めが甘いことがだいぶ減ったと思います。

 「曖昧」にしておけるようになったとき、「思いこみ」からだいぶ脱出できているのではないかと思うのです。

 曖昧にして考え続けているのは、「考えすぎている」というよりも、ちゃんと事実を見ようとしているのだと思います。
 こんな事実はないか、あんな事実もあるのではないかと。
「事実」を見ていくというのは、表面的な事実だけではなく、見えていない想像のなかの「事実」のことを指しています。
 「事実っぽくなっている」人の「考えている」と、違った種類なのかと思います。

 
 白黒つけてしまうと、考えるのを辞めるから行動しなくなることもあるかもしれません。また、考えずに即答することは、直感とは違うのではないかと思います。
 逆に、「曖昧」にして考え続けることができるからこそ、
直感力が磨かれていくのではないかと、そのような仮説が出てきました。

 あまり考えずに「コレ」というのと、考え続けることが常ならば、「これが自分の心にフィットする」感覚が磨かれるからでしょうか。いつも心と直結しているイメージができます。
 また、「事実」を色々と考え続けることで、いろいろなパターンに対して、もしかしてコレかもという勘が鋭くなるのだと思うのです。

 「曖昧」思考を身につけることで、直感力や勘、第六感的な能力が引き出されるかもしれませんね。「曖昧」にしておくことで、人は何を考えだすのか? 新しい境地が、また開花しそうなコミコレになりそうです。


 今日はこちらの質問はいかがでしょうか?

いま、曖昧にしていることはありますか?



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『曖昧』という漢字を見ると発見がありました。曖昧は、お日様のような、ただそこにある愛を表しているのかもしれません。そこからディスカッションが、始まりそうです。『曖昧』を体験した時に感じる気持ち、感覚を味わえるコミコレにしたいと思っています。