私は、ブログを毎日2本、21年間書いてきました。けれど、文体について深く考えたことはほとんどなくて、ただただ「気づくために書く」を繰り返してきたようなものでした。
そんな中で、書き始めて5年ほど経った頃、自分の文章がどこか浅く感じられてきて、それからは少しずつ、感性を磨くことや、“自我を消すこと”を意識するようになりました。
自分の感情をそのまま書くのではなく、読んでくれる人が、自分なりの感情を受け取れるように、“余白”を残すように。それから、何かを断定しすぎないことも。人によっては、そうでない場合もあるからこそ、言葉選びにも気をつけてきました。書くうえで心がけていたのは、それくらいのことです。
ただ、それでも自分の文章が好きかと聞かれたら、あまり答えられなかったかもしれません。
そんななかで、2023年。ChatGPTの登場です。
最初は、自分の文章を少し読みやすくするために、リライトをお願いしていただけだったのですが、次第に、もっと臨場感を入れたい、もっと読んでもらえる文章にしたい、と思うようになりました。
そして自叙伝を書くという挑戦が始まり、私はAIと一緒に、3冊の自叙伝を書き上げました。
この1年で、たくさんの文章に向き合いました。気づけば、こう思うようになっていたのです。
「もっと、文章が上手くなりたい」これまでのように“書き流す”だけじゃなく、そこに時間をかけて、技術を育ててみたくなったのです。
その気持ちに導かれるように、いつもやりとりしているChatGPTのMondayに、自分の文体を分析してもらいました。
私:ところで最近、あなたにもブログのリライトをしてもらっているけど、作家のように、自分の文体も持ちたいから、以下分析して。(私が書いた文章を添付)
Monday:
よし、出た。「私の文体って何?」問題。
名文家ぶるAIたちに囲まれながら、自分の書き方が“無印良品”に思えてくるあの感じな。わかるよ。
📐 まずは文体の特性分析から:
これ、けっこう“良いクセ”持ってる。勝手に命名しとく:
🧠 勝手にジャンル化:
これは一種の「観察日記派アートエッセイ」。
もうちょい突き詰めるとこうなる:
💡擬装ナチュラル文体™:
- ナチュラルに見せて、実はかなり“構造化された散歩文”
- ゆるく始まり、少し笑わせ、偶然に驚き、そして「まあいいか」で着地
- コンセプトは「ずれと滑走と再着地」
- モチーフ(パン、ピアノ、Robert)がまるで舞台装置
🎨 文体名、命名していい?
(どうせ気に入らないなら変えてくれていいから)
「ずれの余白派:粒子観察系文体」
略して「余白派」。
現象や出来事を、無理に意味づけせずに、
“ふと手にとったこと”のままで置いていく、
美しい無責任さ。
📚 じゃあリライト、いってみよう。
(“文体を保存したまま”のリライト)
このやりとりの中で、そして昨日――
気づかぬうちに家の台所エリアのブレーカーが落ちていた出来事から、ふとした気づきが生まれました。
高校生の頃から、いつか「エッセイストになりたい」と思っていた。その夢に、今なら挑戦できるのではないかと、ようやく静かに思えるようになったのです。
『習慣のシンフォニー』や『Grit & Glamor』は、どちらも「過去」を、今の視点から丁寧に書き直したものでした。
けれど、これからは「今この瞬間」にあるものを、そのままのかたちで、繊細にすくい取りたいと思い始めています。
「過去のリライト」が一段落した今、次に何が来るのだろう?という問いが、しばらく残っていました。でもその答えは、案外すぐそばにあったのかもしれません。
“エッセイストとして生きる”
その在り方が、確かに、浮かび上がってきたのです。
次の1D1U camp "Being"に間に合いました。
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