2019年、私は“たまたま”華道を習い始めた。
ヨガクラスで出会った草月流の先生の在り方に惹かれたからだ。
静かで、強く、透明。
空気の輪郭だけが先に歩いているような、あの独特の存在感。
説明できない“美しい秩序”をまとった人だった。
その佇まいに触れた瞬間、
私はまだ知らない領域へと引き込まれたような気がした。
華道には2年ほど通った。
けれど、その2年間は、
“できない自分”とずっと向き合い続けた時間
でもあった。
花は好きだったし、
本当に上手くなりたいと思っていた。
なのに、実際にやってみると驚くほど何もできなかった。
枝の角度が決まらない。
高さが整わない。
剣山に挿せば挿すほど、わからなくなる。
迷うと焦り、焦ると手が止まる。
気づけば、頭の中はいつも
Doing(どうすれば上手くなるか) でいっぱいだった。
正解を探し、
間違えないように手を動かし、
できない自分に落ち込んで、
また正解を探す。
だから先生の言葉も、
本当の意味ではまったく入ってこなかった。
先生が静かに微笑んで見守るたび、
私は余計に不安になった。
「教えてくれなければ、できるようにならない」と思っていた。
でも、今ならはっきりわかる。
私は花と向き合う前に、自分と戦っていたのだ。
そして何より——
家元・勅使河原蒼風のあの言葉の意味も、
当時の私はまだ受け取る準備ができていなかった。
「花は花、人は人。花はいけたら、人になる」
当時の私はこの言葉を、
ただの“名言”としてしか読めていなかった。
でも今の私はわかる。
これは在り方の話だった。
Doing ではなく、Being に戻りなさいという、
草月流の核心そのものだった。
そして、その頃コロナ禍が始まり、
時間も合わなくなり、
いろいろな理由が重なって——
私は自然と、花から離れていった。
──そして、ここからが本番だった。
華道を離れた5年間。
私は知らないうちに、
別のかたちの深い稽古に入っていた。
誰かを支える。
ただ“在る”ことで寄り添う。
Doing ではなく、Being の側から関わる。
その経験が、
私の在り方をゆっくり、深く、育てていた。
だからこそ、
華道でできなかった理由が今になってやっと腑に落ちる。
あの頃の私は未熟だったわけではない。
才能がなかったわけでもない。
在り方がまだ育つ途中だっただけなのだ。
家元の言葉が心の奥に落ちたのは、
5年という時間を経て、
私自身の在り方がようやく“咲き始めた”からだ。
今の私は、やり方を教えていない。
Being を押しつけてもいない。
ただ静かに、
「在り方」
と言うだけだ。
それで十分だと知っているからだ。
言葉より深い何かが、相手の内側で必ず芽を出す。
あのとき咲かなかった花が、
今、私の言葉のなかで静かに咲き始めている。
構文もまた、一輪の花。
生けるのは、今日のあなた自身だ。
🖊 英語版
🖊 編集後記
英会話の先生から
「華道の先生、ミヤギ先生みたいですね」と言われました。
華道で繰り返した「真・副・控」。
あれは Doing ではなく、Being の訓練でした。
いま私は、その続きを
発信しているのだと思います。
人生は、本当に美しい循環を描きますね。
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