最近、はっきりと分かったことがある。
恐怖や欠乏感の中にいる人と、
すでに満ちた感覚に戻っている人では、
見えている世界が、まったく違うということだ。
同じ出来事が起きていても、
同じ言葉を聞いていても、
そこから立ち上がる意味が、まるで違う。
恐怖の世界にいるとき、人はどう世界を見るのか
恐怖の中にいるとき、
人は世界を「安全かどうか」で判断している。
失敗しないか
間違えないか
置いていかれないか
何かを失わないか
この視点で世界を見ていると、
余白は不安になり、
沈黙は拒絶に見え、
説明がないことは不親切に感じられる。
「寂」という言葉も、
欠如や孤独として立ち上がる。
これは性格の問題ではない。
思考の癖でもない。
身体がサバイバルモードで世界をスキャンしている状態だ。
ディスペンザ博士が言う
「身体は過去の感情に中毒している」という言葉は、
まさにこの状態を指している。
恐怖に慣れた身体は、
常に「危険がないか」を探し続ける。
満ちた感覚に戻ると、世界はどう変わるのか
一方で、身体が安心側に戻ると、
世界の見え方は静かに反転する。
同じ出来事なのに、
余白は、贅沢に感じられ
沈黙は、信頼として受け取られ
説明のなさは、自由として立ち上がる
「寂」という文字も、
孤独ではなく、寂静という落ち着いた豊かさになる。
何かを足さなくても、
何かを証明しなくても、
世界はちゃんと回っている。
このとき人は、
コントロールしなくていい世界を生きている。
世界が変わったのではない
ここで大切なのは、
世界が変わったわけではないということ。
変わったのは、
世界を見る側の位置だ。
恐怖の世界線から、
充足の世界線へ。
同じ現実にいながら、
意味の層がまったく違う場所に立っている。
だから、反応が変わったり、
何が起きても慌てなかったり、
恐怖からやることがないから、
「やることがない」と感じる瞬間が訪れる。
それは成長ではなく、
元の位置に戻った感覚に近い。
なぜ、話が通じなくなるのか
この移動が起きると、
自然と起きる現象がある。
恐怖側の人には、
言葉が薄く、足りなく見える。
満ちた側の人には、
説明が多すぎて、うるさく感じられる。
どちらが正しい、という話ではない。
住んでいる世界線が違うだけだ。
変わらなくていい理由
ここまで来て、
ようやくはっきりと言える。
変わる必要があるのは、
人そのものではない。
変わる必要があるのは、
恐怖に反応している身体の状態だけ。
安心に戻ると、
人は自然に、本来の在り方を思い出す。
それは新しい自分になることではなく、
元の自分に戻ることだ。
戻った先が、
結果として「未来側」に見えるだけ。
恐怖と充足では、
見えている世界が違う。
だから、話が合わなくなることもある。
だから、説明がいらなくなることもある。
それは冷たさでも、切り捨てでもない。
ただ、位置が変わったという事実だ。
また書きます。
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