ジャーナリングというと、
毎日びっしり書くものだと思っていました。
気持ちを掘り下げて、感情を言語化して、
自分と向き合う時間を作る。
それはそれで意味があります。
でも私がたどり着いたのは、もう少し手前のことでした。
書くことは、気づくことだった。
なぜ書くと気づけるのか
頭の中にあるものは、流れていきます。
不安が湧いて、考えて、また別のことを考えて、
気づけば最初の不安が何だったかも忘れている。
でも書くと、止まります。
「今日、なんとなく落ち着かなかった」
「あの一言がずっと頭に残っていた」
「理由はわからないけど、体が重かった」
一行書くだけで、それが目に見えるものになる。
頭の中を流れていたものが、そこに留まる。
留まったものは、見えます。
見えたものは、少し遠くから眺めることができます。
その「距離」が、気づきの入口です。
分析しなくていい
よくある誤解は、書いたものを分析しなければいけないということです。
「これはなぜ感じたのか」
「この感情の根っこは何か」
「どうすれば改善できるか」
でも、それをやろうとすると、書くことが重くなります。
そして続かなくなる。
一行ジャーナリングは、分析しません。
ただ、置いておく。
「今日の体は、こうだった」
それだけでいい。
置いておかれたものは、時間をかけて自然に見えてきます。
無理に掘り下げなくても、パターンが浮かび上がってくる。
タグをつける、という方法
1D1U LAND 2.1 では、週に一度「タグ化DAY」があります。
その日は、自分の反応を一語でタグにします。
「ねば」——〜しなければいけない、という感覚から動いていたとき。
「基準」——自分の中の「こうあるべき」が発動していたとき。
「怖れ」——何かを失うことへの不安が動いていたとき。
長い文章で説明しなくていい。
一語でいい。
でもその一語が、とても多くのことを教えてくれます。
「今週は、ずっと『ねば』が動いていたな」
「この場面では、毎回『基準』が出てくるな」
見えてくると、少し笑えてくることもあります。
「またこのパターンか」と、少し軽くなる。
その軽さが、変化の始まりです。
書くことは、自分に戻ることだった
長い時間をかけて、無意識の反応が積み重なっていきます。
それは悪いことではありません。
生きていく中で、体が自然に身につけてきたものです。
でも、それがそのままになっていると、
いつの間にか「本来の自分」より「習慣の自分」が前に出てくる。
一行書くことは、そこに小さな光を当てることです。
見えてきたものは、ほぐれていく。
ほぐれていくと、本来あった力が、少しずつ動き始める。
書かなくていい。長文もいらない。
一行、体の状態を置くだけでいい。
それが、21日間続いたとき、何かが変わっています。
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