AIに任せることが増えたら、私たちは何を始めよう。

今、私は二つのプログラムを開催しています。

どちらも専用AIや、参加者が個別に取り組めるWebアプリを使いながら、2週間から3週間を過ごしていただく形です。

一人ひとりが、自分のタイミングで問いに向き合い、記録を残し、AIと対話しながら考えを深めていく。

数年前にはできなかったことが、今では当たり前のようにできるようになりました。

自分でプログラムを組めなくても、Webアプリをつくれる。参加者一人ひとりに、専用の振り返りの仕組みを提供できる。以前なら私が個別に対応していたことの一部を、AIに任せることもできる。

これは、長く一人で仕事をしてきた私にとって、大きな変化です。


ところが最近、その便利さの先で、少し気になることが起きています。

一人でできることが増えるほど、人と関わる機会は減っていくのだろうか。

そして、もしそうだとしたら、私たちは何を手に入れ、何を失うのでしょうか。


2018年、AIのいなかった1D1U

2018年から続けている「1D1U(ONE DAY ONE UNKNOWN)」というプログラムがあります。

21日間、1日1日を完了させる生き方、習慣化、継続力など21日間で身に着けていくプログラムでした。

始めた当時、そこにAIはいませんでした。

参加者は朝、その日の意識や取り組みを書き、夜には実際に起きたことを振り返る。

誰かのコメントを読んで、自分の経験と重ね合わせる人がいる。別の人の気づきから、新しい問いが生まれることもある。

私自身も、皆さんのコメントを読みながら、翌日はどんな問いを投げかけようかと考えていました。

あらかじめ決めた内容を一方的に届けるのではなく、その場にいる人たちの言葉によって、次の日の展開が変わっていく。

参加者だけでなく、私も影響を受けていたのです。


今振り返ると、あのコメント欄には、単なる報告の場所以上の役割がありました。

誰かの経験が、別の誰かの気づきになる。そして、その気づきが、また別の行動を生む。

一人の変化が、ほかの人の変化のきっかけになる。

その循環そのものが、プログラムの一部だったのだと思います。


 AIが、個人の振り返りを引き受け始めた

2023年ごろから、私もAIを仕事に取り入れるようになりました。

最初に試したのは、参加者へのフィードバックです。

記録を読ませると、AIは出来事を整理し、言葉の中にある思考のパターンを見つけ、私が見落としていた視点まで提示してくれることがありました。

もちろん、いつも正しいわけではありません。それでも、これまで私一人で行っていたことの一部を任せられるのは、大きな変化でした。


やがてAIは、特別な道具ではなく、日常の相談相手になっていきます。

わからないことをAIに聞く。考えがまとまらないときはAIと話す。振り返りも、文章づくりも、アイデア出しも、自分のスマートフォンの中でできる。

かつては誰かに相談しなければ進まなかったことも、まず一人で試せるようになりました。


そうなると、ひとつの疑問が浮かびました。

これまでコミュニティの中で行っていたことの多くは、各自がAIと取り組めるのではないか。


そして今回、1D1Uのために「青写真日記」というWebアプリをつくりました。

その日に起きたことや、自分がどう反応し、何を選んだのかを、一人ひとりが記録できる場所です。

これまで朝と夜にグループへコメントしていただいていたのですが、日記を書く場所が別にできたのだから、同じことを何度も書く必要はない。


参加者の負担を減らそうと、朝夜のコメントを基本形から外しました。

すると、グループにコメントする人は限られるようになりました。

もちろん、コメントが減ったからといって、皆さんが取り組んでいないとは限りません。

日記の中では、それぞれに発見が生まれているのかもしれない。単に、グループに何を書けばよいのかわかりにくくなった可能性もあります。

ただ、ひとつ確かなことがありました。

私には、皆さんが今、何を経験しているのかが見えにくくなったのです。


効率化したのは、記録だけだったのか

ここで、少し立ち止まって考えました。

私は、朝夜のコメントを「振り返りを記録する作業」として捉えていたのかもしれません。

だから、個人用の日記アプリができれば、グループへの投稿は省略できると考えた。

確かに、同じ内容を二度書く必要はありません。

でも、朝夜のコメントは、本当に記録のためだけに存在していたのでしょうか。


誰かが朝、「今日はいつもと違う選択をしてみます」と書く。

それを読んだ別の人が、「私もやってみよう」と思う。

夜になって、「思い通りにはいかなかったけれど、こんな発見があった」と誰かが書く。

すると別の人が、自分の一日を違う角度から振り返る。


そこには、記録する本人にとっての意味だけでなく、その記録を誰かが読むことによって生まれる価値がありました。

そして私も、その循環の中にいたのです。

参加者のコメントを読んで、次の日の問いを変える。思いがけない発言から、新しいテーマを見つける。


つまり、私が効率化したつもりだったのは、単なる記録作業ではなかった。

人と人の間で起きていた、予測できない相互作用まで減らしていた可能性があるのです。

ここに、AI時代の効率化を考えるうえで、見逃せない問題があると思いました。

ある作業をなくしたとき、私たちはその作業に付随していた、目に見えない価値までなくしていないだろうか。


AIに聞いても、わからないことがある

これまでは、参加者のコメントを読みながら、次に何を届けようかと考えていました。

誰かが同じところで迷っている。ある人は予想外の選択をした。別の人の一言が、私自身の考えを変えた。

そういう日々の動きが、翌日の記事の内容にも影響していました。

ところが、その手がかりが少なくなると、私は「今日の問いかけは、これでいいのだろうか」と考えるようになりました。


AIに相談すれば、いくらでもテーマは提案してくれます。

21日間のプログラムにふさわしい問いも、読みやすい文章も、あっという間につくれます。

でも、今参加している人が昨日何を感じ、今日どんなことを試しているのか。

その情報を持っていなければ、AIにもわかりません。

AIの性能が足りないという話ではありません。

そもそも、考えるために必要な情報が届いていないのです。

これは私にとって、重要な発見でした。


AIは、与えられた情報をもとに、思考を整理したり、別の可能性を示したりすることができます。

けれど、まだ言葉になっていない現場の空気や、誰かの何気ない反応、偶然交わした会話の中にある違和感は、AIに渡されていないことがあります。

そして、私自身がその場に触れていなければ、AIに渡すことさえできない。

AIがどれほど進化しても、私が世界から何を受け取っているかは、私自身の経験に左右される。

技術が高度になるほど、むしろこの事実が際立ってくるように感じます。


一人の時間は深める。人といる時間は揺さぶる。

私は、一人で取り組む時間が好きです。

文章を書き、考えを整理し、試しにつくってみる。今ではAIと相談しながら、コードを書かずにWebsite、Webアプリまで形にできるようになりました。

自分のペースで、思いついたことをすぐ試せる。

これは本当に面白い変化です。

AIとの対話で、自分でも気づいていなかった考えが言葉になることもあります。

だから、AIとの時間を、人間との交流より浅いものだとは思っていません。

ただ、人と関わる時間には、別の種類の出来事が起こります。

自分とは違う経験を持つ人の話を聞く。何気ない一言に引っかかる。自分では当然だと思っていたことを、別の角度から見せられる。

ときには、相手の言葉が理解できなかったり、自分の考えと食い違ったりする。

でも、その食い違いが、新しい問いの入口になることがあります。


AIとの対話でも、予想外の視点は得られます。

それでも、人間同士の関係には、相手にも独自の人生があり、こちらの意図とは無関係に考え、行動しているという特徴があります。

自分のために用意された答えではなく、相手自身の人生から生まれた言葉に出会う。

そこに、私たちの予想を超える面白さがあるのだと思います。

一人の時間は、自分の考えを深める。人といる時間は、自分の考えの外へ連れ出してくれる。

もちろん、いつもそうなるわけではありません。

一人で考えていても思いがけない発見はありますし、人と集まっても何も変わらないことはあります。

大切なのは、どちらかを理想化することではなく、それぞれの時間が持つ可能性を理解することなのでしょう。


学ぶことと、交流することを、あえて分けてみる

今月開催する「AI自動化」のWebinarは、カメラオフで静かに参加できる形にしています。

自分の仕事を持ち込み、何をAIに任せられるかを考える。

誰かの前で自分の状況を説明したり、積極的に発言したりしなくても、必要なことを持ち帰れる場です。

それはそれで、意味のある形だと思っています。


一方、今回の1D1Uで感じた違和感から、もうひとつの可能性が見えてきました。

人と関わること自体を目的にしたプログラムがあってもいいのではないか。

何かを教わるためだけではなく、互いの経験を持ち寄り、話し、聞き、思いがけない発見が生まれる場。


しかも、それはAIを使わない場である必要はありません。

事前にAIと対話して、自分の考えを整理しておく。

人と集まったときには、知識の説明よりも、互いの経験や問いを交わすことに時間を使う。

そして、そこで得た発見を、また一人の時間に持ち帰ってAIと深める。

そんな行き来もできるはずです。


ここで重要なのは、単に「AIを使う時間」と「人と話す時間」を分けることではないと思います。

AIに任せられることが増えたからこそ、人と集まる時間を、これまで以上に意識して設計できる。

知識を得るために、必ずしも同じ時間、同じ場所に集まる必要はなくなりつつあります。

だったら、集まる時間を、互いの経験に触れたり、新しい問いを生み出したりするために使うこともできる。

ただし、交流そのものを全員に求める必要はありません。

一人で取り組みたい人もいれば、人と話すことで考えが進む人もいる。

その両方を、目的に応じて選べるようにする。

AIによって個人の自由度が増したのなら、コミュニティのあり方にも、もっと自由があっていいはずです。


ルネサンスの絵画を見ながら考えたこと

先日、ルーヴル美術館の展覧会で、ルネサンス期の作品を見てきました。

そこで改めて考えたのは、新しい技術や知識が、人間の可能性をどう変えてきたのかということです。

ルネサンス期には、古代の学問が再評価され、遠近法や解剖学などの知識が発展し、芸術家たちは世界を新しい方法で捉え、表現しようとしました。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、その象徴的な人物の一人です。

絵画だけでなく、人体、自然、水、飛行など、さまざまな領域を探究した人でした。

同じ時代の哲学者ピコ・デラ・ミランドラは、人間には自分自身のあり方を形づくる可能性があると考えました。


もちろん、当時と現代では、社会も技術もまったく違います。

それでも、人間の可能性を問い直すという点では、今のAI時代と重なるものを感じます。

AIによって、これまで専門家に頼まなければできなかったことが、一人でもできるようになってきました。

私自身、プログラミングを専門的に学んだわけではありません。それでも今は、自分の考えをWebアプリという形にして、参加者に届けています。

数年前には想像していなかった変化です。


ただ、ここで考えたいのは、できることが増えた先の話です。

技術によって可能性が広がったとき、人間は、その可能性を何のために使うのか。

もっと多くの仕事をこなすためなのか。

これまでできなかったことに挑戦するためなのか。

自分の世界を深めるためなのか。

それとも、他者と新しい関係をつくるためなのか。

技術は手段を増やしてくれます。

でも、その手段を使ってどんな人生を送りたいのかは、私たち自身が考えることです。


 AIに任せることが増えたら、何を始めよう?

最近、メルマガのタイトルを考えていて、なかなか言葉が決まりませんでした。

AIでできるようになったことは、いくらでも書けます。

仕事の自動化、文章作成、アイデア出し、アプリ制作。

けれど、どうもそれだけでは、今の自分が感じていることを言い表せない。


考えた末に浮かんだのが、

「AIに任せることが増えたら、何を始めよう?」

という問いでした。


AIによって何ができるようになったか。

もちろん、それも大切です。

でも、できることが増えた先で、私たちは何をしたいのか。

空いた時間を、さらに仕事で埋めるのか。

それとも、今まで後回しにしていたことを始めるのか。

一人で考える時間を増やすのか。

誰かと会い、話し、思いがけない経験をするのか。

答えは、人によって違っていいと思います。


今回の1D1Uでは、参加者の負担を減らそうとした結果、以前は自然に起きていた交流が少なくなりました。

その変化をどう感じているのか、参加者の皆さんにも聞いてみようと思っています。

もしかしたら、一人で振り返る今の形が合っている人もいるかもしれません。

一方で、以前のように、ほかの人の言葉に触れたい人もいるかもしれない。

まだ、答えは出ていません。


AIに任せることが増えたら、私たちは何を始めよう。

そして、何を大切に残しておこう。

技術が人間の可能性を広げてくれる今だからこそ、その問いを、自分自身にも投げかけていたいと思います。