与えたものに対して返ってきたものは、自分が本当に欲しいものじゃないような気がするとき。

 映画『ニュー・シネマ・パラダイス』が、只今TOHOシネマで朝10時の回だけやっているとのことで、観賞してきました。私が中学生の頃にリアルタイムだったので、どこかのタイミングでDVDを観たのでしょう。「いい映画だったなぁ」という印象を持っているくらいでした。

 しかし、今回改めて見て、そのよさが分かったのです。まるで、16年ぶりに『星の王子さま』を読んで、「こんな話だったのか!」と号泣したように、あのときに見ていなかったことが、今見えるようになったのだと思いました。

【物語】TOHOシネマサイト より
 ローマに住む映画監督のサルヴァトーレは、故郷シチリアの母から「アルフレードが死んだ」という報告を受け、少年時代を回想する。戦争で父をなくし、母と妹と暮らす少年時代のサルヴァトーレ(愛称トト)。映画好きな彼は、母の目を盗んでは映画館「パラダイス座」に通う日々が続いていた。トトは何度も映写室に潜り込もうとするが、そのたびに映写技師のアルフレードに追い返される。そんなふたりの間に、次第に映画を介した友情が芽生えていく。


 感動というものは、自分の中にその因子があるからこそ感動するわけですから、「相手のためにささげる」という信念で生きているほど、感動するのではないかと思いました。歳や経験に比例するのかもしれませんね。

 以前から私は、「与える人ですね~」と言われることも少なくありませんでしたが、「持っているのなら与えよう」という感じであり、そうするとちょっと上から目線だった気もします。
 また、人よりもせわしなく、もてなしている自分でいつもいれば、なんとなく気持ちがいいようにも感じていました。でも、どこかで「せわしなく」なんです。次に相手はこう来るだろうから、私はここまでフォローしようと先回りして考えて、自分のすることだけにフォーカスしていていました。なので、やりすぎの場合もきっとあっただろうし、自分の考えたフォローは、相手が欲しいものじゃないときもあって、相手を傷つけ、疲れさせて、関係が終わってしまったことも何度か繰り返しました。

 つまり、相手がどんな受け取り方をしているか? も全く見えていなかったようなのです。
 そんな「相手にささげる」をしていたので、与えたものに対して返ってきたものは、自分が本当に欲しいものじゃないような気がしたりしていました。
「生まれてきてくれてありがとうございます」と、実際に何度か言われたこともありますが、それは、褒めすぎでしょうと、言葉に反応をしていました。

 きっと、そのように「相手から返ってくるもの」に自然と甲乙をつけてしまっていたというのは、自分で自分の評価をしているのではなく、相手に評価を委ねていたからでしょう。そうすると、ときにいい評価をもらえなかったときは、私も一緒に傷ついてしまっていたのです。

 今ならば、相手がどんな形で渡してきても、「その人らしい渡し方だわ」と感じ、そうしてくれる気持ちそのものにフォーカス出来ているので、たいていありがたいものに値するのです。小さな子供が、自分の持っているお菓子をくれる瞬間なんていうのは、なんだか涙が出てきてしまいます。

 何もしてくれなくても、一緒に時を過ごしてくれている共有感だけでも、嬉しいのです。
 映画の中で、「客席の人が笑うのが嬉しい。自分が笑わせているみたいだ」とアルフレッドが言った言葉もそのようなことなのかなと思いました。アルフレッドの台詞に、「言葉でなく、目で見えるものを信じる」という言葉もありました。お客さんから何か言葉を言われたから嬉しかったというのではなく、映写室の小窓から客席を眺め、「ああ、笑っているな~!」と確認できて、アルフレッドは満足していたのです。

「自分のすることを愛せ。子供の頃、映写室を愛したように」。
これからローマに旅立つトトへ、アルフレッドが贈った言葉です。今は、何が何だかわからなくても、まずはそこにフォーカスしていけば、後で振り返ったときに気づけるよという言葉が、きっと隠れていたように思いました。


 今日はこちらの質問はいかがでしょうか?

夢中でやっていることはなんですか?