先日、一緒に伊勢神宮へも行ったクライアントさんが、「いつも不思議なくらい居心地のいい集まりで、とても楽しめました」とおっしゃっていました。
私が英会話のインストラクターに、クライアントさんと伊勢神宮へ行った話をしたら、「君が行こうって提案したの?」と聞かれたので、「皆が行きたいというから、企画して10人連れて行くことになった」と答えました。すると、「それじゃー、退屈だったでしょ?(笑)」と。この投げかけは、いつもの冗談だなと思いながら「私は、みんなの写真を撮るのを楽しめたよ」と答えたら、「いい仕事してるね!」と返ってきました。
そんな他愛のない話をしたら、思いのほかクライアントさんが、「えええ?そんな風に言ったんですか?」とおっしゃるので、私は「いやいや、それはジョークでしょ。そういう返しもありますよ…。ってことは、結構真面目に受け止めちゃうところがありますか?」と聞いてみました。
すると、「最近、同じことを会社の同僚にも言われたばかりで…、いまつながりました」とおっしゃるので、セッションで取り上げてみることになったのです。
相手とのやり取りの中で、なんとなく、笑いをとろうとしてやったことが、そのままスルーされたり、「え!!!」と驚かれてしまったら、この人は冗談が通じなそうだから、あまりジョークは言わない方がいいだろうと、思うこともあるでしょう。
私が英会話のインストラクターに、クライアントさんと伊勢神宮へ行った話をしたら、「君が行こうって提案したの?」と聞かれたので、「皆が行きたいというから、企画して10人連れて行くことになった」と答えました。すると、「それじゃー、退屈だったでしょ?(笑)」と。この投げかけは、いつもの冗談だなと思いながら「私は、みんなの写真を撮るのを楽しめたよ」と答えたら、「いい仕事してるね!」と返ってきました。
そんな他愛のない話をしたら、思いのほかクライアントさんが、「えええ?そんな風に言ったんですか?」とおっしゃるので、私は「いやいや、それはジョークでしょ。そういう返しもありますよ…。ってことは、結構真面目に受け止めちゃうところがありますか?」と聞いてみました。
すると、「最近、同じことを会社の同僚にも言われたばかりで…、いまつながりました」とおっしゃるので、セッションで取り上げてみることになったのです。
相手とのやり取りの中で、なんとなく、笑いをとろうとしてやったことが、そのままスルーされたり、「え!!!」と驚かれてしまったら、この人は冗談が通じなそうだから、あまりジョークは言わない方がいいだろうと、思うこともあるでしょう。
クライアントさんとしては、もうすこし自分に柔軟性が欲しいとのこと。
柔軟性の逆を考えてみると、「これはよくてこれは悪い」と、判断しがちとも言えます。
私がそうフィードバックすると、小学生の頃の学級会での出来事を、鮮明に覚えているという話しが出てきました。
クラスのあるグループが、誰かの日記を、その辺にあったから、ただ面白がって読んだのだそうです。クライアントさんは、その日記を書いた子と仲がよかったので、学級会で、「それは、謝るべきだ」と強く推したことがあったそうです。子供のころから、正義感がとても強かったようでした。
たまたま日記を見てしまったというほうも、あまり悪気もなかったのでしょう。そこに対して、「謝りなさいよ」と言った自分にどことなく違和感、罪悪感として残っていたのでしょうか。
いいか悪いかでジャッジしがちで、どちらかを決めないといけないと思っているし、自分の判断と違うものは、受け入れにくいという、捉え方の傾向が見えてきました。
しかしながら、親とのやり取りに関しては随分改善されたところがあり、昔は、「なんで、そんな風なことにしたの?」ということがよくあったそうですが、今は、だいぶ許せるようになったそうでした。
プライベートでは、相手の事情も理解できるようになってきたけれど、仕事というある意味判断が必要な場所は、柔軟でいていいのかどうか迷いを生じさせていたようでした。仕事場のときだけ、昔の柔軟ではない自分に戻っていたようです。
そのギャップに苦しんでいたことが、ここ1年くらいの仕事場での焦りにつながっていたのかも…と、クライアントさんの中でつながったようでした。
「これは正解」「これは不正解」という風に、ジャッジしない境地というのは、結構難しくて、私もこの仕事をしながら、だいぶ苦戦したところでした。
私の中で、「絶対こうした方が、成功するのに!」というのがあるときに、相手がその逆を話していると、どうしてもそこを変えなければ…と思ってしまい、よかれと思って「そうはしないほうがいい」と相手に伝えてしまう。
しかし、それは、相手を否定していることにつながっていたとは、なかなか気づけませんでした。
また、ジャッジするということは、自分の中でもそれを禁止しているということですから、自分で自分を苦しめているシーンもきっと少なくないのだと思います。無意識で、自分を責めがちなのかもしれません。
ジャッジしないで聴くことは、凄く難しいのです。ですが、「ジャッジしない」と意識して、相手の話を最後まで聞くようにしていくと、相手がそのまま話を続けていく中で、自分で答えを言うのです。そういう体験をしながら、ジャッジする必要は別になかったんだ! とようやく腑に落ちていくのです。
相手から「真に受けやすいところがある」と言われる理由が、「いいか、悪いかでジャッジしがち」なところから派生していたんですね。段々と意識していきながら、柔軟性は出てくると思います。自分自身に柔軟性が出てくると、周りの人も本音を言いやすくなることもあり、コミュニケーションはもっと楽しいものになると思います。
今日はこちらの質問はいかがでしょうか?
受け容れられない話は最近ありましたか?
柔軟性の逆を考えてみると、「これはよくてこれは悪い」と、判断しがちとも言えます。
私がそうフィードバックすると、小学生の頃の学級会での出来事を、鮮明に覚えているという話しが出てきました。
クラスのあるグループが、誰かの日記を、その辺にあったから、ただ面白がって読んだのだそうです。クライアントさんは、その日記を書いた子と仲がよかったので、学級会で、「それは、謝るべきだ」と強く推したことがあったそうです。子供のころから、正義感がとても強かったようでした。
たまたま日記を見てしまったというほうも、あまり悪気もなかったのでしょう。そこに対して、「謝りなさいよ」と言った自分にどことなく違和感、罪悪感として残っていたのでしょうか。
いいか悪いかでジャッジしがちで、どちらかを決めないといけないと思っているし、自分の判断と違うものは、受け入れにくいという、捉え方の傾向が見えてきました。
しかしながら、親とのやり取りに関しては随分改善されたところがあり、昔は、「なんで、そんな風なことにしたの?」ということがよくあったそうですが、今は、だいぶ許せるようになったそうでした。
プライベートでは、相手の事情も理解できるようになってきたけれど、仕事というある意味判断が必要な場所は、柔軟でいていいのかどうか迷いを生じさせていたようでした。仕事場のときだけ、昔の柔軟ではない自分に戻っていたようです。
そのギャップに苦しんでいたことが、ここ1年くらいの仕事場での焦りにつながっていたのかも…と、クライアントさんの中でつながったようでした。
「これは正解」「これは不正解」という風に、ジャッジしない境地というのは、結構難しくて、私もこの仕事をしながら、だいぶ苦戦したところでした。
私の中で、「絶対こうした方が、成功するのに!」というのがあるときに、相手がその逆を話していると、どうしてもそこを変えなければ…と思ってしまい、よかれと思って「そうはしないほうがいい」と相手に伝えてしまう。
しかし、それは、相手を否定していることにつながっていたとは、なかなか気づけませんでした。
また、ジャッジするということは、自分の中でもそれを禁止しているということですから、自分で自分を苦しめているシーンもきっと少なくないのだと思います。無意識で、自分を責めがちなのかもしれません。
ジャッジしないで聴くことは、凄く難しいのです。ですが、「ジャッジしない」と意識して、相手の話を最後まで聞くようにしていくと、相手がそのまま話を続けていく中で、自分で答えを言うのです。そういう体験をしながら、ジャッジする必要は別になかったんだ! とようやく腑に落ちていくのです。
相手から「真に受けやすいところがある」と言われる理由が、「いいか、悪いかでジャッジしがち」なところから派生していたんですね。段々と意識していきながら、柔軟性は出てくると思います。自分自身に柔軟性が出てくると、周りの人も本音を言いやすくなることもあり、コミュニケーションはもっと楽しいものになると思います。
今日はこちらの質問はいかがでしょうか?
受け容れられない話は最近ありましたか?
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