心で思っていることが言葉にならないこともある。

 今日、バスに乗っているときに、お母さんと小学生の女の子が座っていて、そのやり取りを見て、ふと思ったことがありました

 子供は子供の知っている言葉で話す。だから、心で思っていることがうまく言葉にならないときもあるんだろうなと。そんなときは、もどかしく見えて、態度に言葉を乗せている感じに見えたのです。だから、態度が言葉になっているというか。

 そのあと、実家で3歳の姪っ子と遊びました。私と姪っ子が遊んでいるところを、母が見ていて、「私はあそこまでは入りこめないわ」と言われました。
 まだ、姪っ子が1歳くらいのときは、父と母が子供に随分と入りこめているなぁと私が感心して、どうすればそうなれるのかなぁと、二人を観察していたほどだったのですが、いつの間にか、私の方が入り込んでいるようになっていました。

 私は、仕事時間も自分のペースですし、一人暮らしなので、遊ぶ時間もじっくりと取り組める余裕を持てるからというのもあります。
 
 また、聴く仕事をしてきたから、以前の自分自身と比較すれば、きっと子供の心の気持ちを察することに長けてきたのだと感じています。これはとても大きな変化です。それに、以心伝心を、実験しているのもあったり、それが楽しさにもつながったりしています。

 「今、そこで起きている状況」から察知して、今、ここでどんな表情を見せたら、姪っ子が笑うのか? どんなリアクションをしたら、面白がるのか? こうかな、こうかな、と動いています。また、遊びながら何かを学習することもあるから、どんな言葉を使おうかなど、色々試してきました。
 結局、こちらが自然に身を委ねるのが一番楽ちんであり、相手も楽しんでいるようです。それは、大人と接する時と同じだとも感じています。

 姪っ子がイメージしている遊び方というのもあるようで、少しでも、違うようだと「違うよ」と、姪っ子は言ってくるのです。「じゃあ、こう?」とすぐにリベンジをして、「そう」と、くみ取りながら相手のイメージに近付けようとしています。言葉が少ない分、行間を読みながら遊ぶという感じです。

 
 そもそも、そうやって遊びたいなと思ったのは、コーチングをしていて、大人の目線から、「子供の頃こうして欲しかった」ということを知ることも多いからです。

 「あのとき、こうして欲しかった」というのを、誰しも持っているようで、そんな話を聴くと、「こうして欲しいだろうな」ということを自然と予測するようになってきたのです。
 
 つまり、「子供は、こうして欲しいをうまく言えないところもあるんだ」と思うから、こちらから、「こうして欲しいのかな?」って察してあげられたらいいなと思ったのです。

 そうなると、子供の覚えている言葉では、語彙があまりにも少ないですから、表情や行動から読み取るしかなくなっていきます。

 姪っ子は、私と遊ぶとき、部屋のかぎを閉めます。きっかけは、2歳のある日から、遊んでいる途中、ママが入ってこようとしたときに「来ないで」と言うようになり、彼女が自分で鍵を閉めるようになりました。しつけが始まったのもあり、評価されることが、始まり出したからかもしれません。

 叔母の立場からの子育ての参加ですので、よっぽどのことがない限り、ありのままでいられる場、したいように振る舞える場の提供が、私ができることなのかなと思って接しています。


 ある日、姪っ子が、おばあちゃんの部屋にあったチョコレートを「これ、食べたいなぁ~」と申し訳なさそうに私に向かって言いました。私は、ご飯も食べ終わったし、これ以上食べてはいけないと、ママは言うだろうなと思ったのですが、ちょっと実験として、「ママに食べちゃだめって言われるかもしれないね・・・。食べるか食べないか、自分で決めていいよ」と言いました。
 
 すると、こっそり2つ口に入れました。(笑)一瞬、「あちゃ~」となりましたが、3歳らしくて、かわいらしいではないですか。
 自分で決めるように促すと、「そりゃ食べる」とわかったので、それからは、「ママに聞いてからにして」と、言うようにしました。
 一方、「食べたいから食べた」が、自分を大切にするという、自然の姿なんだなぁとも思いました。


 私自身の経験から、言葉がまだ少ない子供と遊ぶことは、心の目を開かせるための一つのきっかけになると思っています。心で思っていることが言葉にならないこともあるのです。だから、行間を読もうとすることは、大事です。
 
 きっと、「以心伝心」は、日本人の得意分野かもしれませんね。


 今日はこちらの質問はいかがでしょうか?

自分の気持ちを言葉に表していますか?