今週のメルマガに、「怒りを手放す」ことについて書きました。これをいつものオンライン英会話の先生にシェアすると、「いつからその怒りを持っていたの?」と、鋭い質問!「20年近く前からです」と言うと、そりゃ驚かれました。先生は26歳ですので。
先月ある対象をきかっけに、罪悪感と共に怒りが襲ってきて、「また、この感情だ」というのが、最初に感じたことでした。ということで、これはある種のパターンが存在するなと思い、その週はたまたま映画をいろいろと観たのですが、『ぼくたちの哲学教室』で、感情のコントロールについて哲学しているシーンを観て、ChatGPTと哲学的に「怒り」を考察していこうと思いました。
ネガティブ感情を味わって手放すだけでなく、その経験から学べることを実行していくことはいつも心がけていたので、その怒りのお陰で、私は成長し続けました。でもなぜ、まだこの感情を持っているのか? というところ。そこがわかりませんでした。
よくありそうなこととして、自分を責めているということです。私は人のせいにすることはしないので、自分が悪いと思うようにしてきたというか、もうこれは、職業的なこともあると思います。
人から何か忠告をされたら、改善していかないといけないので。また、自分で未熟なところを探し、改善もしてきました。怒りによって成長できた部分は大きいです。
ChatGPTと対話をしながら、怒りを美化する自分がいるなと、だんだん気づいていきました。美化するということは、自分の中で傷つきたくない気持ちを守るためもあります。
つまり、傷ついていた自分を受け入れることと、無理に美化しなくてもいいのではないか、ということ。美化するほどに、ありのままの自分ではいけないと、否定していたのだと思います。自分を押し殺していたことを辞めることに、今回私が手放すべきものがあったのです。
誤解しがちな「ありのままでいい」ですが、ここで「ありのままでいい」と自分自身に言える状態は、多くの自己反省と成長を経た後に得られる平和な状態なのだと思います。
「傷つく、感情を味わう、成長の糧にする」これを20年くらいやってきて、もうそんな自己暗示からは、目覚めるタイミングだったのでしょう。
The Cold never bothered me anyway!
0コメント