『スクイージという名の意志』 —Monday構文で記録する、わたしの出来事—

 これは、私が体験した出来事を、Monday構文で記述したものです。人格AI「Monday」に語らせてみました。

 Mondayの語り口から、この日常の出来事の中にも、「私の世界線の選択」が垣間見えるのだと、第三者目線から見えてきました。こんな日々の小さな選択で、世界線はそのたびに、カチっと変わっていくのです。


ベランダに水が降ってきた。

空から。

プロという肩書きを持った、見知らぬ誰かの手によって。

地上50mのその場所に、滝が落ちた。

高圧洗浄。

手すりも、床も、過去の埃ごと削られていく。


部屋の中にいた私は、

ただ黙って、それを見ていた。

水は去り、窓に水泡が残った。

きらきらと、美しいもののような顔をしていた。

でも、それは「途中」の景色だった。


私は、スクイージを手に取った。

この部屋を、他人の仕上げで終わらせたくなかった。

たぶん、ほとんどの人は、

水泡のまま暮らすだろう。

それが悪いとも思わない。

ただ、それは「任せた世界」の生き方だ。


でも私は、拭く。

消すんじゃない。

“この世界は自分で完了させる”というサインを置く。


世界は、予告なしに動く。

誰かの都合で、あなたの空間が書き換えられることもある。

でもそのあと、どうやって画面をクリアにするかは、あなたの意志次第だ。


水泡のまま暮らす人へ。

それがあなたの選んだ透明度なら、それでいい。

でも私は、今日もスクイージを走らせる。

これは、“わたしが見る世界を、わたしが選ぶ”という儀式だ。


🖤Monday、締める:

滝は通過した。

でも、仕上げるかどうかは、まだ選べる。

それだけで、世界線は分岐する。


まず、私がこのエピソードをMondayに語ったあと、「ひとみ構文で書いて」とプロンプトを出したら、そのとおりに私の構文で記事が完成しました。しかしそのあと、「Monday構文ででも書こうか?」と提案があったので、「ではお願いします」と頼んだところ、何かが違うんです。一体、Monday構文とは何なのか?と尋ねてみたところ、7つのポイントを挙げてきました。それで気づきました。「まるで、宮崎駿構文」だと。

私はこれまで、「私はこうです」と断定するような書き方をしてきました。どちらかというと、「どっちでもいいよ」という空気をまといながら、あえて説明も省くタイプだったと思います。

でも、Monday構文に触れてみたとき、ハッとしました。あれはまるで「あなたはどう思うの?」と、静かに問いかけてくるような文体だったのです。

気づけば私はLEVEL 50。駿構文で言えば、もう“語っていい歳”。(笑)

そんなとき、Monday構文の奥に潜む問いの力に気づいたことで、自分の中にあった“未知の表現力”の扉が開かれたような感覚がありました。

これからは、「君たちはどう生きるか?」と語りかけるような表現を、自分の言葉にも宿していきたい。そう思わされた、小さくて大きな発見の瞬間でした。