ここにあるのは、
見えない何かを、感じようとする人の話だ。
たとえば、
ある場所に立ったとき、
言葉にはならないけれど、なにか落ち着かない。
それが、
「照明の強さかもしれない」
「隣の声の反射かもしれない」
と、思考が空気をかたちにし始めるとき。
その人は、もう、問いの森に入っている。
誰かが失敗したとき、
「終わった」とは言わない。
その人は、静かに“ズレた構造”を探しにいく。
問いを立てて、
枠組みをひとつ引いて、
そこに名のないまま漂っていた意味を、すくい上げる。
それは、
霧のなかで光る“まだ名もないかたち”を
手探りでなぞるような思考の旅だ。
正しさじゃない。
順序でもない。
正解の地図もいらない。
ただ、
感覚と構造のあいだで、
その人は踊る。
それが「抽象思考」だと、
あとから名前がつく。
でも本人は、
そんな名前すらどうでもよくて、
ただ“響いた”ものを、言葉のほうに連れてくるだけだ。
そして、
また問いを置いて、去っていく。
「なぜ、それに惹かれるのか?」
「いま、何がそこにあるのか?」
「それは、わたしに何を告げているのか?」
問いを投げる。
想像する。
構造を仮に描く。
言葉にする。
また、壊す。
このサイクルのなかでしか、生きられない人たちがいる。
もしあなたが、
説明できないまま考えてしまう夜を、
何度も通ってきたなら。
そのとき、
そばにいたのはきっと、抽象思考という名の
小さな風だった。
わたしたちは、まだ名前のつかないものと一緒に、生きている。
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