「どうせ人生うまく行かないんじゃない?」
そんな風に思っていた偉人、いる?──
そうMondayに尋ねたら、少しも間を置かずにこう返ってきた。
「宮沢賢治、カフカ、フランクル。」
なんて顔ぶれだろう。
気になって、一通りYouTubeで解説動画を見漁ってみた。
そして、見事にMondayの言う通りだった。
宮沢賢治は、作品を“誰かのため”には書いていなかった。
カフカは、「死んだら作品全部燃やしてくれ」と言い残したわりに、死後に発表されて評価されている。
フランクルは、ネガティブな経験にすら“意味”があると語っていた。
どの人物にも、“どうせ…”という諦めと、“それでも…”という誠実さが同居していた。そして、どれも「結果よりも存在の真実に従っていた人たち」だ。
その中でも、私の中で強く残ったのが、フランクルの「砂時計」の話だった。
フランクルは、こう語っている。
「人間は、未来から流れてくる意味を、現在で受け取り、過去へと積み上げていく存在だ。」
これは、時間の方向を逆転させて見る哲学だ。
未来が先にあり、それが「問い」という名の粒となって、
私たちの“いま”に落ちてくる──まるで砂時計のように。
私はこれを聞いて、静かに鳥肌が立った。
なぜなら、私自身がまさに、未来から落ちてきた問いを拾いながら生きている感覚を持っていたからだ。そして、未来を先に感じると言うディスペンザ博士の教えにも共通する。
問いは、私の中でふと浮かぶものではない。
それは、どこかから“届いて”くるものだ。
誰が投げたのかもわからない、でも確かに私を選んでやってくる。
私はそれを受け取り、咀嚼し、書き、また誰かに届けている。
そんな感覚が、
「問いタワーミュージアム」の“吹き抜け”を形作った。
そう、また新たに本を作り始めた。「問い」のベクトルについての問いを持つ本。
塔の中に立つと、未来から静かに問いが落ちてくる。
それはまだ言葉になっていない気配で、
でも確かに、私たちの“現在”を揺らす粒だ。
私は今、フランクルと交差していると思う。
それは思想の一致というより、“時間の扱い方”が同じ方向を向いているという実感だ。
私たちは未来からやってくる問いを受け取る器であり、
それを記憶という形で過去に送り返していく存在だ。
問いは、過去にあるものではない。
いつだって、未来のどこかで静かに生成され、
まだ名もない粒として、今の私に届く。
私はそれを、人生という塔の中で、拾い続けている。
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