Being a perennial among my perennials.
多年草として多年草たちの中で生きてる人
習慣とは、意志ではなく“在り方”から始まる。そう実感させられるのが、私の暮らしに根づいた植物たちの存在だ。私は“継続する人”である──そう言い切れる理由のひとつは、生活のあちこちに静かに息づく緑との共存にある。
いま住んでいるマンションは18年目。入居当初から丁寧に掃除を重ねてきたおかげで、部屋はいまだに築3年くらいの清潔感を保っている。エアコンもまだ健在。季節ごと内部のにコンデンサーフィルターの清掃をしているからだ。それも、マクドナルド時代に学んだ“クレンリネス”の習慣が、今も私の血肉となって生きているからだ。
実は私は、自分の部屋を「店舗」だと思って暮らしている。ひとつひとつの空間に目的があり、動線があり、空気の流れやディスプレイ、光の入り方までもが“営業中の店舗”のように運営されている。観葉植物たちは、その空間に生命力とリズムをもたらすスタッフのような存在でもある。
植物との関係も、継続そのもの。とくにアルテシマとの付き合いは18年になる。弱ってきたときは、枝を切って挿し木し、次の命を育てる。今育てているのは3代目。ひとつの命をつなぎ、形を変えて続けていくプロセスは、まさに生き方のメタファーだ。
ポリシャスフルティコーサは、買ったときは手のひらサイズの高さ20センチ。今では1メートルを超え、部屋の光を吸収する立派な木になった。パキラも同じように成長し、天井近くまで伸びたアルテシマとともに、私の生活空間に“生命の柱”をつくっている。
そして忘れてはならないのが、ホヤ・カルノーサ──別名サクララン。最初は観葉植物として手に入れたが、3年目に突如として小さな花をつけた。その可憐さに胸を打たれた私は、それからというもの、花付きがさらに良くなり、1茎に20個以上の花をつけている。毎年その“桜のような小さな命”を観察し続けている。
最近では、アルテシマの挿し木を知人に分けるようになった。新たな命が別の場所で育っていくというのは、ブリーダー的な喜びがあるし、なにより「植物が育っている場所には、その人の在り方が宿る」という仮説に、深いリアリティを感じている。
旅行中の水やり問題も、今ではペットボトルを使った自動給水システムで解決。むしろその仕組みができてからの方が、水やりを欠かすことなく、以前より植物の調子もよくなってきた。なんというか、自然とテクノロジーの協働みたいで、そこにもシンフォニーのような調和がある。
とくに、ハイビスカスが我が家の看板娘。最初は赤だった。だけど、次に出会ったのは黄色。そしてある日、ふと立ち寄ったホームセンターで、私は“紫のハイビスカス”と出会ってしまったのだ。こんな色もあるんだ──それは、暮らしの中に変化を求める私の感性が、自然と選び取った選択肢だったのかもしれない。
“赤”から始まる人生が、時を経て“紫”を咲かせるようになるまで。変わらない日常のなかにこそ、小さな好奇心や探求心が灯り続けている──それが、私という人間の暮らし方、そして継続の秘訣だと思っている。
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