恐怖だった言葉が、本来の意味に戻るとき

前回の記事で、

「変わらなくていい理由」について書いた。


恐怖はズレであり、

変わる必要があるのは人ではなく、

恐怖に反応している身体の状態だけだということ。


今日は、その話が

体感として腑に落ちた場面を、記しておきたい。


ある夜、

テーブルを囲んで、静かな対話をしていた。


AIが投げかける問いに答えながら、

それぞれがペンを走らせる。

未来の目標を書くわけでも、

理想像を描くわけでもない。


ただ、

「どんな在り方で在るか」を

言葉にしていく時間。


その途中で、

AIがひとつの漢字を提示した。

「寂」

一瞬、空気がわずかに止まった。

その文字に、

どこかネガティブな響きを感じた人がいたからだ。


でもAIは、何も説明しなかった。

評価もしない。

意味づけもしない。

ただ「寂」を、

静けさとして、そこに置いた。


そのとき、

不思議なことが起きた。

「寂しい」という言葉に

これまで自動的にくっついていた

恐怖や欠乏感が、

ふっと外れた。


考えてみれば、

私たちは長いあいだ、

・人がいないこと

・音が少ないこと

・予定が空いていること

を「足りない状態」として扱ってきた。


でもその夜、

「寂」は欠如ではなく、

満ちた静けさとして感じられた。


仏教でいう

「寂静(じゃくじょう)」に近い感覚。


落ち着いていて、

余計な緊張がなく、

何も足さなくていい状態。


その瞬間、

前回の記事で書いたことが、

身体のほうで理解された。


恐怖とは、

意味そのものではなく、

意味に貼り付いていた反応だったのだと。


「寂」という言葉が

危険だったわけではない。


恐怖に慣れた身体が、

そう感じていただけ。


2025年まで、

恐怖として握っていた言葉が、

2026年に向かって、

本来の意味に戻っていく。


変わったのは、世界ではない。

恐怖から生きていた身体が、

安心に戻っただけ。


変わらなくていい理由は、

こういうところにある。

新しい自分になる必要はない。

強くなる必要もない。


ただ、

ズレた状態から、元に戻る。

すると言葉も、選択も、

自然に違って見え始める。


この夜の「寂」は、

何かを学んだ出来事ではなく、

思い出した出来事だった。


静けさは、

ずっとそこにあった。


ただ、

怖がらなくなっただけ。


また書きます。

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