2531mの鳥居で、「私を通してください」と祈ったら…

山頂に、鳥居がありました。

標高2531m。


息を切らしながら登った先に、

空へ続くような門が立っていました。


なぜ、そこに鳥居があるのか。

なぜ、自分がそこまで来たのか。

そのときは、よくわかりませんでした。


ただ、門の前に立つと、

胸の奥から、ひとつの言葉が出てきました。

「私を通してください」


仕事をください、でもなく、

願いを叶えてください、でもなく、

成功させてください、でもない。

なぜか、その言葉でした。


誰かに許可を求めていたのか。

それとも、

自分自身に向かって言っていたのか。


わからないまま、山を下りました。


 何も起きなかった

その場で何かが変わったわけではありません。

空が割れたわけでも、

声が聞こえたわけでもない。

人生が急に動き始めたわけでもありません。


むしろ、そのあと、

私は深く立ち止まりました。


もう、どうしたらいいのかわからない。

頑張ることも知っている。

待つことも知っている。

ゆっくりすることも、

受け取ることも覚えた。

それでも、進まない。


そのとき、

自分の中にひとつの言葉が浮かびました。

「参りました」

負けた、という感じではありませんでした。

諦めた、でもない。


ただ、

もう、この在り方だけでは進めません。

そう認めたのです。


「参りました」のあと

「参りました」と言ったあと、

すべての答えが見えたわけではありません。


けれど、少しずつ、

目に入るものが変わりました。

これまでなら通り過ぎていた入口。

自分には関係ないと思っていた場所。

まだ準備が足りないと思っていたこと。


そういうものが、

急に近く見えるようになりました。

世界のほうが変わったのか。


それとも、

自分がようやく見られるようになったのか。

今はまだ、わかりません。


ただ、ひとつ確かなのは、

待っているだけだった自分が、

外の世界へ手を伸ばし始めたことです。


門が開いたのではなかった

山頂で、

「私を通してください」

と祈ったとき、

私は外側の門が開くことを願っていたのかもしれません。


けれど、あとになって思いました。

開いたのは、

外の門ではなかった。

自分の中の門だった。


待つことしかできなかった自分。

正しい在り方を守り続けていた自分。

今までのやり方の中で、

なんとか答えを見つけようとしていた自分。


その自分が、

「参りました」

と言ったことで、

ようやく少し脇へよけた。


すると、

その奥に、ずっと使っていなかった自分がいました。


動ける自分。

選べる自分。

外の世界へ手を伸ばせる自分。

昔の自分に戻ったのではありません。

待つことも知っている。

ゆっくりすることも知っている。

受け取ることも知っている。


そのすべてを持ったまま、

もう一度、動けるようになったのです。


天空の門

今思えば、

2531mの鳥居は、

古い自分を捨てるための門ではなかったのだと思います。


これまで育ててきた自分と、

長いあいだ使わずにいた自分が、

もう一度出会うための門。


どちらかを選ぶのではなく、

両方の自分で通る門。

山頂で口にした、


「私を通してください」

という祈りは、

門の向こうへ行かせてほしいという願いではなく、

本当は、

私が私を通すための言葉

だったのかもしれません。


そして、

その門を通るために必要だったのが、

「参りました」

だったのでしょう。


「参りました」は、終わりの言葉ではありません。

それは、

古い在り方だけでは、

もう進めないと認める言葉。


そして、

次の扉が開く前に、

人がようやく言える言葉です。


空に近い場所には、

ときどき門があります。


人生にも、

ときどき、そういう門があります。


力ずくでは通れない門。

うまくやることでは開かない門。


その門の前で、

人は静かに言うのだと思います。

「参りました」


そして、もう一度。

「私を通してください」


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