本当は寂しいのに、寂しいと言葉に出してみたことがあまりない。

 自分は教える側なのに、生徒のでき上がりを見ると「何でそこまでするのかな?自分はできない」と感じて、自分責めてしまう自分と、ま、それでいいんじゃない? という自分。はたまた、私も一緒にやりたいのにというような思い。
 自分の作品を深めたいと思い、毎日写真を撮ることを課したことがあるけれど、「この写真は、変だからやめよう」とある日思って、それきり、まったくしなくなってしまったこと。

 色々と話していくうちに、「自分の中の拗ねる自分」が感じていることのように思えてきました。まるで、子供のように、言いたいことはあるけど言えなくて、拗ねる形で表現しているかのような、そんな印象です。

 拗ね癖は、どこでついてしまったのでしょうか?
子供の頃のことを振り返ってみると、すぐに出てきました。

 「しょっちゅう拗ねていた記憶。わかってもらえない。末っ子で甘えん坊。構って欲しい。認めて欲しい。放っておかれるのが嫌。ひとりで遊んでいなさいと言われても、遊べない。だけど、注目され過ぎると隠れる。構ってほしいばかりで、自分からは呼ばない」

 いまも、人から構ってもらえることを喜ぶようなところがあるとご自身でも感じていらして、「知人から声をかけてもらい、行くことになりました」というようなことは、毎回のセッションの最近の様子を振り返るときに、確かによく耳にする言葉でした。

 今回のセッションで、拗ねる気持ちと向き合ってみたのです。

 そもそも拗ねてしまうという内側には、「…して欲しいけれど、…してくれないから」が潜んでいそうです。
 「何をしてほしかった?」と訊いてみると、「怒らないで欲しかった。喧嘩が始まるのが怖かった」というのが出てきました。だけれども、自分が思っている気持ちは言葉に出さないで、拗ねるという行動でいつも表わしていたので、拗ねることで、さらに怒られて、また拗ねるというようになっていたようでした。

 そして、「一人にされるのが嫌で、寂しがり屋なところがある」そうなのですが、今の親友も寂しがり屋のようで、その親友は、「寂しい」と言葉に出して言ってくるので、自分も本当は寂しがり屋なのに、「寂しい」と言えなくなってしまうとか。本当は甘えん坊で寂しがり屋だと、バーっと出したいけれど、本当はこうしたいを抑えているので、 ある場では、他の人は「ちゃん」で呼ばれているのに、自分だけは「さん」づけで呼ばれてしまうこともあるようです。

 本当は寂しいのに、寂しいと言葉に出してみたことがあまりないようでした。
 セッションは、1年以上継続されていらっしゃいますが、そう言えば、こんなに「寂しい」という言葉を連発されたのも初めてだった気がします。あらあらどうして、私も「寂しい」を引き出してしまったのでしょうか。

 「寂しい」気持ち。最近私も、ふと人と別れたときに「寂しい」という気持ちに襲われて、「そう言えば、この寂しさ、どこかで感じたことがあるわ」と思い、この際だから「寂しい」と味わいつくすことに専念してみたら、さっき別れたばかりの相手と、10分後くらいに、帰りがけに寄ったお店でばったり再会してしまいました。自然と寂しいが、嬉しいに変わりました。手放せたことを投影した出来事だったのかなと感じました。


 「寂しい」を味わって手放すこと。その感情が襲ってきたら、味わうチャンスなのです。出てきたときに、そのまま味わう。体にある「さみしさ」をそのまま持っておくだけ。そこにフォーカスすると、自然と離れて行く感覚になるのです。

 そんな話をしたら、クライアントさんも、人との関わりの中で、一抹の寂しさがあるときがあるそうで、たまにそういった場面に出くわすと、「寂しい」感情が襲ってくるそうです。でも、それを味わって手放すというようなことは、したことがないとおっしゃっていました。

 確かに、寂しい気持ちをずっと持っていると、ますます涙が流れてきてしまいそうですが、その寂しさをずっと味わわないでいると、また、寂しさがやってきてしまうものです。もし、手放したいならば、自然な経過をたどらせることなのです。
 「寂しいよー」と味わっていると、やがて消えるのです。自分が自分の中の寂しさに寄り添ってあげているイメージでしょうか。

 クライアントさんは、もっとこれからも自分のお仕事を深めることや、発展させていきたい思いがおありのようなので、まずは、自分に構う時間を持って、自分を満たすことにフォーカスしてみることがいいかもしれません。

 自分に構ってあげる時間を十分に持つと、利他的な気持ちも、さらに自然と増す気がしています。
 きっと、セッションで初めて出てきた「寂しい気持ち」は、雨のち晴れを暗示していると思います。

 今日はこちらの質問はいかがでしょうか?

気持ちを味わっていますか?