1.6 丁寧に生きることを学んだ旅
与論島で「今を生きる」ことの大切さを学び、日々の瞬間に意識を向けるという新たな視点を得た私は、次に訪れた奈良の地で、さらにもう一つの大切なことに気づかされました。そのきっかけとなったのは、春日大社を訪れたときの体験でした。神聖な空気に満ちたその場所で、私の中に眠っていた新たなテーマが目を覚ますことになるとは、この旅に出る前には想像もしていませんでした。
私はかつて、人生のあらゆる場面で「せっかち」な性格が顔を出し、心に余裕がないまま生きていました。目の前の課題をひたすらこなすことに追われ、立ち止まって自分の行動や考え方を振り返る余裕などほとんどありませんでした。
「早く」「効率よく」「正しく」を重視するあまり、周囲の人とのコミュニケーションでも誤解を生んだり、相手の気持ちに寄り添うことを忘れてしまったりすることが多々ありました。その結果、友人や仕事相手との関係がぎくしゃくすることも少なくありませんでした。
けれども、当時の私は「自分は正しい」「誠実に対応している」と信じ込み、なぜ関係がうまくいかないのか原因がわからないまま時間だけが過ぎていきました。
気がつけば、自分を責める気持ちばかりが膨らみ、前に進めない感覚に囚われていました。「私のやり方は間違っているのかもしれない」という思いと、「どうしてこんなことになってしまうのだろう」という戸惑いが交錯する日々――。
そんな私が心の変化に気づき、自分自身と向き合うきっかけとなった出来事があります。それは、ある神社巡りの旅での体験から始まりました。
ある日の何気ない会話の中で、友人が「奈良」という言葉を口にしました。その瞬間、私の心は不思議と奈良へと惹かれていきました。特に明確な目的があったわけではありません。ただ何かに導かれるように、奈良の神社を訪れることを決めたのです。
たくさんの神社がある中で、私の足は春日大社へと向かいました。
春日大社は、まるで別世界のような神聖な空気に包まれていました。広大な境内には多くの末社が点在し、歩くだけでも心が洗われるような場所です。本殿での参拝を終えた後、私は「夫婦大國社」という末社に向かいました。
この神社は人と人とのご縁を結ぶパワースポットとして知られていますが、当時の私にはそんなことを考える余裕もありませんでした。「15時までに行かないと受付が終わってしまう!」という焦りだけが頭にあったのです。
まるでスタンプラリーのように、次の目的地へ急ぐ気持ちばかりが先走っていました。春日大社の境内を早足で進み、やっとの思いで夫婦大國社に着いた時には、「間に合った!」という安堵感と「早く参拝しなきゃ」という緊張感で頭がいっぱいでした。
そこには和室のような静かな空間が広がっていました。靴を脱いで上がるようになっていましたが、私は靴も揃えずに中へ入ろうとしました。その時です。奥から、凛とした女性の声が響き渡りました。
「靴をちゃんと揃えなさい。」
その一言で、私の体は硬直してしまいました。当たり前のことを指摘されただけなのに、その言葉が心の奥深くまで突き刺さってきたのです。自分のせっかちさ、基本的な礼儀さえも忘れていた自分の姿に、言葉を失いました。
参拝を終えた後、私は神社の隅で静かに涙を流していました。
「なぜこんなにも心に余裕がないのだろう」「どうしてこんな簡単なことさえできないのだろう」という思いが、胸の中でぐるぐると回っていました。
この経験が、私の大きな転機となりました。
私は、目の前の「行動」や「達成」に追われるばかりで、一つひとつの行動により丁寧に取り組むことをおざなりにしていたのかもしれない。自分の家に入るときも、「自分の家だからいいや」としてしまうことが多かったのです。でも、本当に大事なのは人に見られていない場所でこそ丁寧に振る舞うことなのではないか。このとき、私は初めて「丁寧に生きる」ということの意味を考えたのです。
そしてこれが、大人になっていく過程の一つなのかもしれない――そんなことを思いました。自分の課題が見えた瞬間でもありました。
この旅以降、私は「丁寧に生きる」ことを心がけるようになりました。しかし、意識を変えたからといって、すぐに全てが上手くいくわけではありませんでした。
その後も、友人との対話や仕事の場面で、私の「思い込みの強さ」や「相手の気持ちへの配慮不足」が問題になることがありました。
ある時、親しい友人に悩みを相談したことがありました。友人は私のために必要な真実を伝えてくれたのですが、私は自分の考えに固執してしまい、その言葉を素直に受け入れることができませんでした。
何度も話し合いを重ねた末に、友人は「もう疲れたので、距離を置きたい」と言い出しました。その時の私には、なぜ友人がそこまで疲れてしまったのか、想像することさえできませんでした。
仕事の場面でも同じようなことが起きました。クライアントから「セッションが怖いのでやめます」と言われたり、自然と関係が途切れてしまったり。振り返ってみれば、それらは全て私自身の在り方に原因があったのです。
それでも、私は少しずつ変わり始めました。自分を責めるだけでなく、相手の立場に立って考えたり、自分の行動を振り返ったりする時間を大切にしたい。そして、あの春日大社での体験を思い出すたびに、「丁寧に生きる」ということの意味を、もう一度確認するのです。
2011年、私はある大きな決断をしました。それまでの私は、とにかくビジネスを成長させることに全力を注ぎ、日々を駆け抜けていました。
売上を上げるために奔走する一方で、自分自身や家族との時間を大切にする余裕はほとんどありませんでした。しかし、その年、私は「もっと自分の人生を見つめ直そう」「丁寧に生きる」という決意を新たにしたのです。
家族と過ごす時間を確保することや、傾聴スキルを学び直して人とのコミュニケーションを改善したいという気持ちが芽生えました。また、それまで疎かにしていた自分の趣味や創造力を育む時間――映画を見たり、美術を楽しんだり、趣味を楽しむ時間――も大切にしたいと思うようになりました。同時に、自分自身のメンテナンス、つまり心と体を整えることにももっと専念する必要があると気づいたのです。
今では、靴を揃えるという小さな所作にも、その人の生き方が現れることを実感しています。日々の中で、焦らずに心を込めることで、満足感や充実感が生まれるのだと感じています。そして、何かを急いで達成するのではなく、何気ない日常の一つひとつに丁寧に向き合っていくことが大切だと今ならわかります。
しかし、「丁寧に生きる」姿勢を手に入れるまでの道のりは、決して平坦ではありませんでした。この気づきを得た後も、自分の中に残る課題や不足と向き合い、それらを一つずつ乗り越えていく必要がありました。
ここから先は、自分の弱さや足りない部分をどう受け入れ、どのような行動を重ねて、自分自身を大きく変えていったのか――その物語をお伝えしたいと思います。それは、ビジネスと人生のバランスを模索しながら歩んだ、私自身の自己探求の旅の記録です。
実は、このエピソードを書いてから、さらに気づいたことがあります。この内容について、英会話の先生とディスカッションをしていたとき、「靴の向きを変える」というフィジカルな動作こそが、私の人生における方向転換を象徴しているのではないか、と教えてもらったのです。そして、その行為を表す英語に「Reorient」という言葉があると聞き、まさにその通りだと感じました。
靴の向きを揃えるという一見些細な行為が、自分の進むべき方向を見直し、新しい視点を得るきっかけとなった。そう考えると、あの瞬間の意味がさらに大きく感じられます。行動そのものが、自分を再調整する象徴的なサインだったのかもしれません。
■編集後記
お恥ずかしい話ですが、靴を揃えて脱ぐことはしていましたが、入口の方向に向けて揃えるという心の余裕はありませんでした。靴を揃えることは、自分自身に対しての礼儀でもあったんですね。
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