習慣のシンフォニー Epi.10:想像力の扉をひらく

文化というものに対して、私はただ受け身で眺めるのではなく、できる限り“能動的な参加者”として関わっていきたい。


Step 6. 想像力の扉をひらく――映画、美術、そしてピアノとの出会い

私には、ずっとコンプレックスに感じていたことがあります。

それは、「人の気持ちを想像するのが苦手」ということでした。

学生時代、数学や英語の成績は良かったのに、国語だけはなぜか「3」。物語に感情移入することができず、どちらかというと理論的な文章や構成の明確な本に惹かれていました。マンガにも特にハマらず、映画を観て涙を流す母の姿に、どこか冷めた目を向けていた自分もいました。

そんな私が大人になると、自己分析だけは得意になりました。けれどそれは、物事の判断基準がすべて「自分」になるということでもあります。「どうしてみんなはこう考えるんだろう? 私はこうなのに…」と、他者との違いに戸惑う場面がどんどん増えていきました。

それでも、社会に出るとこの“自分軸”が功を奏し、思い通りに成果を上げられるようになりました。人に流されることなく、自分の戦略で道を切り拓いていく——それは、ある意味で生きやすさでもありました。

ビジネス書は山ほど読みましたが、美術書やアート関連の本には一切触れたことがなく、美術館にもほとんど行ったことがありません。映画も話題作をサラッとチェックする程度。気づけば、私の人生にはアートの香りがまったくなかったのです。

そんな私が変わるきっかけとなったのは、独立後に妹と訪れたパリとニューヨークの旅でした。私と妹は正反対の性格です。だからこそ衝突は起こらない代わりに、妹の行動や感覚が、まるで鏡のように私の「思い込み」を浮かび上がらせてくれたのです。


モネの積藁が、世界の見え方を変えた

パリのオルセー美術館を訪れたときのこと。私はいつものようにサーッと作品を眺め、出口付近で妹を待っていました。けれど、なかなかやって来ない。まぁ、いつも通りのスローペースだから…と思いながら待っていましたが、ふと心の中に小さな違和感が芽生えました。

「どうしてこんなに時間がかかるんだろう?」

そのとき私は、妹のもとへ戻って尋ねました。「ねえ、どうやって絵を見てるの?」

私たちは、クロード・モネの《積藁》の前に立っていました。

妹は少し微笑みながら、答えてくれました。

「この絵、何時ごろに描かれたのかな? なんでここがピンクなんだろう?って考えてた。」

その瞬間、私の中で何かがパチンと音を立てて切り替わったような気がしました。

私はずっと、“好きか嫌いか”という二択でしか絵を見ていなかったのです。けれど、問いを持って眺めると、そこにはまるで絵の中に入り込む小さな扉があるように感じられました。


問いが生まれると、世界が深くなる。

ただ眺めていたはずの《積藁》が、そのときから静かに語りかけてくるようでした。

モネがこの色に込めた思い、時間帯、天候、場所、そしてなぜ何度も同じモチーフを描いたのか――そんな想像の旅が始まったのです。

妹の横顔が、少しだけ遠くに見えました。絵と対話している人って、こんなふうに世界とつながってるんだ、と。

そして私は、その姿に心を打たれながら、自分の中にまだ育っていない感性の芽に気づいていったのです。



書くことは誰かの気持ちを想像すること

この体験が心に残っていた私は、後に自叙伝『かないずむ』を執筆したとき、妹に校正をお願いすることを思いつきました。誤字脱字の確認を一人でやるには限界があり、友人にも頼みましたが、やはりまだミスが見つかる。そんなとき、ふと思い浮かんだのが妹でした。

とはいえ、協力してくれるかは未知数。慎重に言葉を選び、声をかけてみました。

「ねぇ、あなたって“あら探し”得意でしょ? だから、この冊子の添削してほしいの。もちろん、お金払うから。」

妹は、「お金はいらないけど、やってあげるよ」と引き受けてくれました。

……が、物語が4割ほど進んだあたりで、さらっと一言。

「今のとこで1万円ね。」

やっぱり!

でも、その後もきちんと仕事として最後まで仕上げてくれました。そして、遠慮なくフィードバックもくれました。

「主語が“私は”って多すぎる」とか、「こう書かれてると、読む人が傷つくかも」……耳が痛いけれど、思いもしなかった視点ばかり。

そこには“読み手の感情”という視点がありました。

自分の思考を綴るだけでは足りない。相手の感じ方を想像することも、書くという行為の大切な一部なのだと初めて実感しました。


鑑賞というトレーニング

それ以来、私は“想像力”を鍛えるための習慣として、「鑑賞」という行為を意識的に取り入れるようになりました。

コーチングの現場では、相手の言葉だけを頼りにやり取りを進めます。言葉と内面が一致している人はいいのですが、そうでない場合、話の背後にある“見えないもの”を感じ取る力が必要になります。

「この人はそう言っているけれど、本当は違う気持ちを抱えているのかもしれない」

そんなふうに、“言葉の奥”を読み解く感覚が、必要不可欠になっていったのです。

そのとき浮かんだのが、映画でした。私は小説はあまり読まないのですが、映画は映像で感じ取れるので、自然と惹かれていきました。

映画の中では、登場人物の仕草や表情、周囲の空気が視覚として伝わってきます。

「どうしてこの人は今この言葉を選んだんだろう?」

「この沈黙には、どんな意味があるんだろう?」

そんなふうに、言葉と行動の間に潜む“なにか”を感じ取れるようになってきたのです。

そして、最初は気づけなかった細部を、他の人のレビューから拾うようになりました。

「あの場面で、あんな音楽が流れてたんだ」

「冒頭のカメラワークには、そんな意図があったのか」――

他者の視点を借りることで、見える世界がどんどん広がっていくのを感じました。

映画を観るたびに、「オープニングをもっと丁寧に観よう」と思うようになりました。俳優や監督、作品間の繋がりにも気づき、映像の世界が一層立体的に感じられていきます。

そうして、映画を観るだけでなく、調べて、書いて、また観るというサイクルができあがっていきました。

自分の中に「見る力」が育っていくのが、なんだかうれしかったのです。

この楽しさに背中を押されて、私は次に美術館へと足を運ぶようになりました。

海外旅行では必ず訪れるようになり、ヨーロッパの街には本当にたくさんの美術館があることにも驚きました。

アートアプリや音声ガイドを使って、印象派の画家たちの作品をじっくり味わいます。

音声ガイドを聞くと、「この画家はあの人と親しかった」「この色には特別な意図があった」と、ただの“きれいな絵”が“語る絵”に変わっていくのです。

そうやって、美術も映画と同じように「繰り返し体験することで深まる世界」になっていきました。


ピアノが教えてくれた“聴く想像力”

そして2014年。あるピアニストの方が、私のクライアントになったことで、クラシック音楽の世界へも扉が開かれました。

子どものころ、クラシックCDを聴いていた記憶はあったけれど、演奏会に足を運ぶようになったのはそれが初めて。

その方のコンサートをきっかけに、フジコ・ヘミングさん、辻井伸行さん、反田恭平さんなど、さまざまなピアニストの演奏に触れるようになりました。

驚いたのは、同じ曲でも演奏者によってまったく違う表現になるということ。

音の粒の立ち方、間のとり方、響きの余韻――そこに込められた「解釈の深さ」に、すっかり魅了されてしまいました。

もっと知りたくて、私は演奏のたびにブログを書き、YouTubeで何本もレビューを観て、他の人が感じ取った細部に耳を澄ませていきました。

最初はまったく掴めていなかった“音の世界”が、少しずつ輪郭を持ちはじめます。

誰かの感想をきっかけに、新たな気づきを得て、また聴いてみる。

この繰り返しが、「観る力」「聴く力」「想像する力」を少しずつ育ててくれました。

やがて、日常の中にも“鑑賞のまなざし”が生まれるようになります。

何気ない風景、ふと聴こえた音、人の言葉や沈黙……それらの奥に、きっと何かの“背景”がある。

そう信じて想像することが、今の私にとって、世界とつながる方法になっているのです。


【編集後記】

こうして、自分の中の欠乏感を、自分で満たす旅が始まりました。「ありのままの自分」だけじゃ、やっていけない。(笑)

誰かに埋めてもらうんじゃなくて、自分で耕していく時間。

それがないと、きっと“本当の自由”にはたどり着けないと思うんです。

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