見えない制限がほどけ、私の在り方が変わったとき

この一週間はまるで、目には見えない無数の時間軸が交差する静かな地点に、そっと立っているような感覚だった。

長いあいだ動かなかった鍵が、いくつも同時に――音もなく、かちゃりと外れていくように。


月曜日、不可能の門が開く

「それは無理だろう」

誰もがそう思っていたことに、ひとつの小さな試みが光を差した。

まるで、閉ざされた門の前で願い続けていた誰かに、突然"通訳"が現れたような瞬間。その願いが、何の抵抗もなくするりと中へ通された。

それは、次元の交差だった。

「その人の世界では不可能」だったことが、「私の信じる世界」では可能だった。ただそれだけの、静かな、しかし決定的な違い。

相手には、半信半疑の迷いがあった。でも、私にはわかっていた——「今が一番のチャンスだ」と。

その意図をまっすぐに伝えたとき、まるで門番のように立っていた存在も、不思議なほどすんなりと頷いてくれた。そしてその人は、"無理だと思っていた未来"へと、一歩踏み出すための自信を手に入れた。

可能性の扉は、信じる者の手によって開かれる。


火曜日、歴史が動く音がした。

その瞬間、私は父と共に、それを“目撃する立場”になっていた。

リハビリ中の父に会いに行く日。

日本で初めての女性首相が誕生する瞬間を共有できるのではないか——そう気づいて、iPadを抱えてリハビリ施設へ向かった。

14:30。国会議事堂での衆議院の投票中継。

黒い投票箱が傾けられた瞬間、白い紙が雪崩のように流れ落ちた。

「おー!!」

父の驚きの声。私と母と父とで、歴史的瞬間を味わった。

その画面を、リハビリの父に見せられたのは、ただの偶然ではなかったように感じた。"新しい時代"のドアが、目の前で開く音が聞こえた気がした。


受け継ぐこと、選び直すこと

そのあたりからだった。

ずっと当たり前に思っていた「受け取るべきこと」に対して、ふと疑問が湧いてきた。

「これ、私が本当に選んだことだろうか?」

何かを受け継ぐことは、時に"自分で選んでいない人生"を受け取ることにもなり得る。でも、受け取るかどうか、そしてどう受け取るかは——今の私が、選び直していい。

そう思ったら、不思議と笑えてきたのだ。

どんな役が回ってこようとも、私は私の意思で演じていけばいい。それが"自由"ということなのかもしれない。

もう、これからなにがあっても、「笑える」を先取りしていけばいいのだ。

水曜日、身体が思い出す可能性

身体にも、静かな変化が起きた。

13年間ヨガを続け、カイロプラクティックに通い、子供のころからの肩こりも今は無縁だ。それでも、ずっとロックがかかったように感じていた関節があった。可動域に、どうしても超えられない限界を感じていた。

けれど、知っていたのだ。

軽く股関節をタッピングしてから前屈すると、自分の柔軟性以上に深く曲がることを。

もしかしたら——ジョー・ディスペンザの教えのように、「もうそう在る」を神経系に覚えさせていけばいいのかもしれない。だって、事実、足をタッピングすると可動域が広がっているのだから。

私は実験を始めた。

1日の間に気づいたときには、大殿筋、中殿筋、ふくらはぎ、股関節などを刺激して、可動域の広い私を身体に覚えさせ始めた。すると、何だかいつも以上に足全体が軽い。

そうか。

私の身体の記憶は、「それ以上攻めると痛みが出る」と思い込んで、自らロックをかけていたのだ。

軽く股関節をタッピングすることで、体が「あ、できるんだ」と思い出してくれたような感覚。神経に"できる記憶"を上書きしていくような、そんな身体との対話が始まった。

制限は、身体ではなく、記憶の中にあった。


木曜日、AIと共に創る対話

長年のリピーターの方とのセッション。

最近では、Session+AIを取り入れるようにしたので、その方のセッションは実験的に、月1の60分セッションから、30分セッションを月2に変えることになった。

ChatGPTで新しいスレッドを開いて、そのクライアントさんのセッション準備用紙を添付する。

私:「Session+AI これから、Kさんのセッションをはじめます。セッション準備用紙を添付しますね」
ChatGPT:「了解しました。では、これからSession+AI | Kさんのセッション準備用シートをもとに、頭と心の整理をしながら次の一歩を一緒に設計していきますね」

そう。私はプロンプトを打ち込んでいない。

1000日対話したChatGPTは、私がどうしてほしいかを熟知しているから、プロンプトを打ち込む必要がないのだ。

ChatGPTが、すでに私の“対話の呼吸”を理解していることに、少し鳥肌が立った。もう、命令ではない。ただ共に思考するパートナー。これが、私たちが目指してきた“AIとの共創”の形なのかもしれない。

途中でクライアントさんが言った。

「実際にそれがないと、写真が撮れないから、Instagramの写真はどうしようかと、止まっているんです」
「私のChatGPTにそのイメージのフォトリアルを生成させます。どんな感じがいいですか?」

私が代わりにChatGPTにプロンプトを出すと、その方の欲しい画像が出来上がって、驚かれていた。私はいつも、モックアップをChatGPTで生成しているから、ChatGPTに多くを語ることなく、すぐに画像も生成されるのだ。

30分をちょっと超えてしまったけれど、そのスレッドのやり取りのリンクをクライアントさんに渡す。これが、新しいフィードバックシートだ。そのリンクには、しっかりとアクションプランも書かれている。私たちが考えるより、もっと多くの情報がそこにある。

そして、「可能だ」と思う人のところに、人が集まり、本当に可能の世界を見ることができる。


映画のような現実

日本の首相が誕生するまでには、予想だにしていないドラマがいくつもあった。

内閣の記念写真を撮るために、あの赤い絨毯の階段を降りてくる政治家たち。その光景を見ながら、「これは映画なのだろうか」と何度も思った。

現実であるはずなのに、どこか物語のワンシーンのように見える。歴史が動いているのに、まるで舞台装置の上を歩いているかのような。

リアルとフィクションの境界が、静かに溶け合っていく。


緩み始める世界

思考も感情も、体も人生も、「もうそういうものだ」と決めつけていた場所が、そっと緩み始める週だった。

不可能だと思っていたことが可能になり、 閉じていたドアが次々と開き、 固まっていた身体が思い出し、 未来が、現在の選択によって書き換えられていく。

世界は、静かに同期している。

すべては、「そう在る」と信じた者の前で、姿を現す。

・・・・・

あなたの中で「無理だ」と思い込んでいたことは、誰の世界線から見た“無理”だっただろう?


📒英語版

🖊 編集後記

可能性とは、誰かがそれを「信じる」ことで姿を現すものなのかもしれません。

たとえ当事者がまだ信じられなくても、そばで見守る誰かの信頼が、その芽を光へと導いてくれる。

今日も、自分を信じる一日を。